12年前、この檀渓相談室が開設されたとき、事務室の仕事は電話と紙とペンで事足りていた。
今はファックスもできるコピー機があり、パソコンもあって、メールの交換も可能である。所属するカウンセラーはそれぞれに携帯電話をもち、相談室の利用者とは携帯メールで予約やその変更ができる。相談室に訪ねてくる人も人から人への紹介であったものが、インターネットを通じて見つけてこられるようになった。そうして訪ねてきた人が、相談室の場所を教えるのに、インターネットで見ることが出来ますかと尋ねられるようになった。そこでついにこの相談室もホーム・ページを立ち上げることにした。
そうは言っても、私たちにホーム・ページを立ち上げる能力も時間もない。幸い、数年前に共に学んだことのある原田君はパソコンに強いので頼み込んで私たちのホーム・ページを立ち上げてもらうことにした。
こうして、私たちの相談室も時代の波に乗れることになった。これからは、この新しい通信手段を利用してより多くの人と関係を持ち、仕事が広がって行くことだろう。今までだったら、まったくつながれないような方々とも心を通じ合っていくことになるだろう。それがどんな世界なのか、私たちにははっきりとわからない。ホーム・ページを通じて体験しながら、これからの行き方を考えていくことにしよう。
このようなことを考えていたら、相談室での仕事の中で、時代精神の変化に関係することを考えさせられた。
若いカウンセラーがある研究会に参加して、そこで指導された、これも若い先生が「ポスト・モダンの技法」という言葉を使われるので、そのポスト・モダンとはどういう意味ですかと聞きたくなったけれども、聞けずに帰ってきたということであった。
その先生はポスト・モダンを最新のという意味で使われたのである。 ところが、その若い人はポスト・モダンという言葉をすでに古い言葉と感じているらしく、古い言葉で最新のという意味を表されることに違和感をもってしまったようである。
モダンという言葉は現代的という意味で、確かにポスト・モダンは最新のという意味になるのだが、モダンとかポスト・モダンという言葉が流行った時期は過ぎ去ってしまったので、それは最新の意味を表すのに都合が悪くなっているのである。
言葉が時代と共に変遷していくように、私たちの問題も変遷していく。
ある夫婦は離婚してしまった。夫婦が互いに対立してしまったわけではない。親をめぐって対立して、別れて暮らすことになったのである。
そのパターンは大体同じで、夫は親と同居し、嫁さんは一人で、あるいは子どもをつれて出て行くというパターンである。
夫は親の面倒を見なければならないと思うし、妻は夫との生活を中心に考える。ここにモダンとポスト・モダンの違いが明らかに出てきている。夫は親が住む母屋を中心として生活することを考え、妻は母屋とは別に自分たちの家を構えたいと思う。親の方は嫁の主導で夫婦独立の家つくりを考えるなんてと憤る。
私たちの老後は誰が見てくれるのという親の側からの発言に対して、自分のことは自分で考えてという人々が出てきたのである。この考え方は家族主義で生きてきた人にとっては脅威であり、想像を絶する。最近、老いた母親と息子が自殺された。奥さんと子どもたちは別れて家を出ていた。この事件の背後にもこのような心理が働いているのではないかと思った。このような自殺が新聞種にもならない悲しく寂しい世の中である。この団地ができた頃、スープの冷めない距離というのが流行っていた。しかし、今はスープが凍るような距離が適当という世の中になってきたのではないか。スープの冷めない距離というモダンと、スープが凍る距離というポスト・モダンの対立が、今夫婦の間に生じているように思われる。私たちはその問題を如何に考えるかに取り組まねばならない。
新しい一歩には新しい靴を!
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