人は自分を内的な空間の中心に位置づけている。
白紙を用意し、「この白い紙の空間を自分の住む世界と考えたとき、あなたはどこに居ますか、自分が居る位置を○印で示してください」と言うと、ほとんどの人は白紙の中心に自分を位置づける。
次の実験例を示そう。心理学的な測定法にSD法がある。Semantic Deferential
Method、つまり、意味分析法である。大きい―小さい、明るい―暗いなど、反対の意味の形容詞を両端に置いた尺度を多数作り、それらの尺度で対象を評定させ、その平均値を比較分析するのである。このSD法を用いて、例えば、自民党と民主党のイメージの違いを知ることができる。また、「西村洲衞男」について学生たちに評定させると、学生たちが私にどんなイメージを抱いているかを知ることができる。評定者それぞれが自分について評定した結果を平均すると、その結果は尺度の中心に集まる。みんなが描いている自分の平均的イメージは大きくもなく小さくもない、暗くも明るくもない。つまり、多くの意見を集約すると、平均の位置にあるということである。社会生活をする上で常識の範囲内に自分があることは大切なことである。中心のイメージを持っていて、そこに自分があることは社会生活をする上で安心感をもたらすことになる。
人と自分を比較したときは、自分の個性が意識されるので、自分の位置は常識の中心からずれることになる。
箱庭表現を統合するものとして、中心に何かがおかれていることがある。それは大抵、人ではなく、1本の木であったり、一台の自動車であったりする。それらは自分の象徴とも言えるし、世界の統合の中心とも言えるもので、その意味では宗教的な支えとなるものである。
常識も人々の中心という意味合いをもつとき、宗教的な意味がこめられることも考えておく必要がある。
子どもの箱庭では動物や乗り物や家などが区別もなくばら撒かれたように置かれて、中心的なものが何もないことがある。このような表現をする子どもたちは自分がないのである。世界に位置づける自分を認知していないと言える。
ばら撒かれた玩具の中でどれが好きなのか、どれが自分にとって大切なのかわからない。区別のない世界に住んでいるのである。
このような子どもは愛するものを見つけることができないのである。それは自分を大切に思うほどに愛された経験がないからである。
愛されたものは自分を誇りに思い、人やものを愛する気持ちが出てくる。そして、自分にとって大切なものを中心に位置づける。
ありのままの自分を愛されたとき、自分らしいものを箱庭の中心に位置づける。
子どもは遊戯療法の中でセラピストに愛されると、自分の大切なものを選択し、中心に位置づけるようになる。遊戯療法場面は、自分が好きなようにすることができる点で、非常に治療的である。子どもが遊びの中で自分探しができる。
勉強、勉強と叱咤されて、自分を失った子どもたちは遊びの中でこそ自分を回復できるのだが、勉強こそが大切、遊びなんか以ての外と考えている知的に訓練された母親には、この遊戯療法受け入れられがたいところに問題点がある。
勉強ママの下では子どもたちは隠れて遊ばねばならない。これから、隠れて遊ばねばならない子どもたちと遊びを見つけていきたい。