強い女性との戦い

 戦後女性と靴下が強くなったと言われた。

 戦後ナイロンのストッキングがはやり、破れなくなった。また、新憲法によって男女同権となり、女性の地位が向上した。化繊のストッキングの強さは今ではほとんど意識されることはなくなって、巧妙な織り方が女性のボディを作り上げることに役に立ち、女性の美意識を強めた。その結果、母親的な女性の地位は背景に退き、美的な女性が前面に出てきた。

 美的な女性は美を競い、競い合うことが競争社会にマッチした。社会進出により女性の経済力がついてくるにしたがって、自立志向が強まり、結婚を選択しない女性も増えてきた。結婚の関係にも競い合う関係は影響し、強気の、厳しい奥さんや恋人に音をあげて、対応に困った男性が来談されるようになった。

 昔は強い女性というと、高学歴の知的に鍛え上げられた闘士的な女性が連想されたが、今は学歴に関係なく、強い女性が現れているように思う。

美的な女性は自分が認められ、受け入れられることを求める。自分の考え方や生き方が受け入れられないと不安である。男性にいつも注目していてほしいし、自分の変化に気づいて配慮してもらいたい。仕事に没頭し、家庭を顧みない男性は論外となる。ただし、仕事によって成果をあげ、自分の誇りとなる男性は受け入れられる。男性によって自分の地位が向上するからである。夫は自分のアクセサリーの一つなのかと思われる。

 一般的に、高学歴の知的な女性はしっかりした考えを持っているので、昔は家庭全般を取り仕切る役目を持つ人としてそれなりに評価された。しかし、女性は男性に従うべきであるという考えに縛られ、自由は無かった。男性の背後で仕切り屋として力を示すことはできたが、表立ってはできなかった。それでも男性の発言や態度に対していつでもイエスと言って、従うことは難しいので、自分の立場に苦しんでいたに違いない。

 学問を修め、しっかりした女性の男性への抵抗は昔からあったことで、そのために、女性に教育はいらないと考えられていた。それが、今は女性が大学院に進学することも自由に認められる社会になった。

 現在の教育を受けた女性たちは適齢期に達したからといって、年齢を意識して結婚を急ぐことをせず、しっかりと考え、お互いに話し合って、気持ちを確かめながら結婚を決めるようになった。だから、付き合い始めてから結婚までに長い話し合いの期間が必要になってきた。同棲して、結婚生活と同様の生活を実質的にしながら、結婚に至らない事例は少なくない。何年にも亙り妊娠もしないことがある。そのような関係の中で、女性の強い態度や独立的行動に男性が耐え切れず、関係が破綻することもある。

 この類の事例では、気の強い女性と気の弱いやさしい男性の組み合わせになっていることが多い。このような組み合わせの典型例として、ビートたけしさんの物語の中の両親像があげられる。

 最近、ビートたけしさんのご両親のことを描いたTV番組が放映されているということである。この物語は、たけしさんが両親のことを書いた物語『菊次郎とさき』に基づいている。この本はフィクションであるがかなりの部分が本当ではないかと思われる。

 たけしさんにはチック症状がるので、両親のどちらかが大変厳しい人であると考えていた。一般に、チック・吃音の障害は児童期の心理的障害で、厳しい家庭教育の結果生じる。チックや吃音が生じるほどの厳しさを示すことのできる親は相当に高い知的能力をもっている。並みの理性や厳格さではチックや吃音は生じない。知的能力は遺伝負因が高いので、チックや吃音の子どもは学力が低くても、潜在的知的能力は高いと見て間違いないほどである。たけしさんもその例に漏れない。

 週刊誌の対談記事で、たけしさんは、自分の人生は母親への反抗であると述べておられたので、お母様が世間体を気にしたきびしい方だと思っていた。先の本を読んで、お母様の徹底した指導的な態度、しっかりした考えと厳しさによる配慮、周囲の人への批判的、攻撃的な態度に驚いてしまった。一般に吃音チック系の母親の態度は世間体を気にし、理知的で厳格である。しかし、その実態がどのようなものであるか、これまでの臨床場面では知るができなかったが、たけしさんの本を読んで、お母様のその徹底した気配りとしっかりした考え、指導的な厳しさは予想をはるかに超えるものであることがわかった。

 女性はやわらかいくやさしいというイメージを期待している男性にとって、きびしい考え方の女性はとても理解不可能であり、受け入れることができない。気の強い女性を恋人に持ったある男性は何故か酒が飲みたくなって仕方がないと言った。その人は幸か不幸か、酒が全く飲めないためにアルコール中毒になることがなかった、その代わりにヒモ的な生活に入りがちである。男性性がまったく萎え衰えていくのである。

 気の強い女性は、笑顔はこの上なく美しいが、内側にある性格はまるで岩のように固く、動かない。しっかりもので、男のぐうたらにも動じない。しっかりした性格のために、ギャンブルやお酒におぼれ暴力を振う夫の下でしっかりと耐えていることもある。たけしさんのお母さんは、夫の居ないところで夫の悪口を言い、子どもたちにしっかりとしつけをすることでバランスを取っていたと思われる。しっかりしたお母さんだから、夫へ向けるべき怒りを子どもに発散して、憂さ晴らしをしていたわけではない。子どもには子どもへのしっかりした教育観があって、貧しさから抜け出すには学力が大切という考えがあってのことだった。また、芸人になったたけしさんから、小遣いをよこせと、毎月巻き上げながら、芸人として売れなくなったときのためにそれをすべて貯金して、死ぬ間際に渡したという配慮にはたけしさんもおどろいている。徹底した配慮で攻めてくる母親に対して、たけしさんは負けを受け入れないと仕方がなかったのである。

 たけしさんのお父さんは酒飲みであった。気の強い女性との結婚生活では男性は自分の男性性が萎えてくるのを感じ、酒やギャンブルでもしないとたまらないのではないかと思う。たけしさんのお父さんは酒を飲んでも、毎日仕事に行き、きちんとした仕事をしておられ、職人としては一流だった。そこが並みの男性と違うところだった。ただ気が小さく、やさしい人であった。だから、気の小さい弱気なところを守り育てる、やさしい母性的な人がふさわしかったであろう。しかし、たけしさんのおとうさんのような男性と結婚したら、強気の女性は嫌でもいっそう強気にならざるを得なかったかもしれない。強気な女性と弱気な男性の組み合わせ、これはどちらが原因で結果ということでなく、そういう組み合わせになりやすいのである。

 気の強い女性は、やさしい男性のやさしさを求めて結婚するが、そのやさしさの背後にある気の弱さが我慢ならないのではなかろうか。女性は気がやさしくて力持ちという桃太郎のイメージを期待する。そして、威厳をもって力で抑えてほしいのである。それがないと、男性を挑発するように攻撃を仕掛ける。喧嘩では男は女にかなわない。困った事態に何とかしてくださいと女性から要求されても男性は何もできない。だから黙ってしまうか逃げる。お酒に逃げ、アルコール中毒になる。あるいは、反撃しようとして暴力に訴える。そしてDVと非難される。男性は不利である。アル中や暴力の男性には誰も味方しない。、 でも、女性の気丈さやしっかりしたところには良い評価が与えられる。

 こうなったら気の強い女性とは早く別れた方がよい。しかし、この気の強い美人タイプの女性にかなわず、引き下がると男が廃り、負けを認め情けない思いをするだろう。だから、仕方なく酒びたりになって世を過ごすのである。

 強気の女性にやさしく受容的になってもらうことはとてもむつかしい。気のやさしいおとなしい男性に、強気の女性の文句を蟹のつぶやきと思って威厳をもって無視しなさいと言ってもできることではない。

 気の強い女性は、自分はいつも正しいと思っている。自分が間違っていても決してごめんなさいとか、間違っていたと非を認めることがない。しっかりした考えは持っているが、心を持っているかどうか怪しい。自分に問題を見出すことがないので、相談室を自ら訪れる機会は少ない。そこで配慮的に対応する男性がそのような女性に困り果てて相談にやってくる。そのような男性はカウンセリングに通っていろいろと話し合うことができる人である。

 ここに男性の道が開ける可能性があると思う。その道は男の道であるが、男性の理想像がなくなった現在、それを見出すことが大変難しい。最近は声高にしゃべることが男らしいと思う人も出てきた。不言実行の男性は陰に消えつつある。消えかかった男性は存在価値がないと見られてしまう。

 気の強い女性はいろいろと主張し、要求がましい。それに対して沈黙を通すことは難しい。至難のことである。多少の反論をしても、言い合いで男性に勝ち目はない。しかし、男性側としては簡単に答えを出さず、難しい問題を考え続けることが大切ではないかと思っている。答えの出ない状況で忍耐強く頑張り続け、自分にも相手にも納得でき、その状況にふさわしい解決をみつけるところに男の道が開けるチャンスがあると思う。

 成人式という通過儀礼は自分を殺して耐え続けることに意義があるのだから。炎のごとく批判し指導し続ける女性に対して、沈黙して実行し続ける男性の力が必要なのではないか。この形は、オペラ『魔笛』の中にある。結婚に到るためには沈黙と火と水の苦しみに耐えねばならないのだ。この形は今も昔も、洋の東西を東西を問わず変わらないのではないだろうか。

 さて、現代の男性たちはどんな答えを見出すだろうか。私はそれを見たい。