言葉のおくれ

 仕事柄学術雑誌を読む。自分の専門領域の心理臨床関係の論文を読むのだが、私は頭が悪いので、学術論文を読むのは難しいと思って過ごしてきた。学術論文は読むのも大変なのだから、書くのはもっと難しく、自分は疾の昔にあきらめてしまった。博士論文を書いて偉くなった先輩たちは本当に偉いと思う。自分にはできないことをしているのだから尊敬するしかない。博士にならなかった夏目漱石にならってわかるものを書いていきたいと思った。

 自分はこうして自分にわかりやすく、臨床経験に基づいて考えたことを書くようになった。そして、エッセイを書くと意外に沢山の方が読んでくださっているようなのでうれしい。自分にはこうゆう生き方が合っているのではないかと思う。

 さて、若い人が事例研究を学術雑誌に書いたので読んだ。そこに出てくる専門用語が自分にぴんと来ないのである。畑違いのこともあるが、専門用語がぴんと来ないということはすでに今の学会の流れから取り残されていると感じた。

 その昔、グレート・マザーとかシャドウ、アニマ・アニムスという言葉がユング心理学の隆盛で流行った。しかし、今はその影もない。若い人にグレート・マザーと言ってもわからないのではないか。考えてみると、今の若い人が生まれるか、まだ生まれていない頃に流行ったのではないか。心理学の学術用語は流行語に等しく短命なのではないか。

 私はユング心理学の立場にあるから、精神分析関係の言葉はわかりにくい。外国語との違いとまでは言えなくとも、標準語と方言の違いくらいはあるのではなかろうか。そうすると、言葉に託された微妙なニュアンスは、その学派のその言葉を使い始めた人々の間でしか通用しない特殊な言葉ということになる。学術用語といえば格好は良いけれど、若い人に共有される流行語とそんなに変わりない。流行語を理解しない私は時の流れに乗っていない。だから、遅れてしまうのか。

 昨年の暮れ、「こぶくろ」という言葉が目に飛び込んできたので、そばにいる若い人に「こぶくろ」なんて恥ずかしいなあと言ったら、それはグループの名前で、今年紅白に出るのですよと言われた。どうして恥ずかしいのですかというので、「こぶくろ」というのは子宮のことだと言ったら、若い女の人はびっくりし、気がつかなかったと言ったので、私もびっくりした。

 

 言葉だからすべて意識であると考えるのは間違いである。無意識だから恥ずかしさもなく使える。ベイシックなものは変わらない。でも新しいものとのずれはずっと続き、私は時流に乗ることなく底流に乗っていくのではないかと思う。グレート・マザーや死と再生などの言葉が流行っているときも、グレート・マザーとは、死と再生とは、と考えていた私である。やはり偏屈者で、肥後もっこすの血を引いているらしい。

 

 

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