箱庭療法への取り組み

3月末、ソウルに行き、箱庭療法のセミナーに参加してきた。そこで珍しい経験をした。考えさせられることが多くあったので、ここでそのことをまとめておきたい。

 

今では、箱庭療法は相当に普及し、いたるところに広まっている。しかし、箱庭療法の研究会はそれほど流行っている訳ではない。多くのところで箱庭療法の研究会を開いても事例が出てこないし、研究会すら行われていないところが多い。ここに箱庭療法が一向に発展しない理由があるのではないかと思う。

文化の発展という一面から見ると、箱庭療法という文化は一時期相当に発展し、その後衰退の一途をたどる下降、ないしは、発展のないプラトー状態に入っているのではないかと思われる。一つの文化が人々に歓迎され興味をそそった後、衰退するということはそこに何ら発展や新鮮味がないことを意味する。これが変化するには何かあたらしいものが出てこなければならない。今までの箱庭療法に付け加えるものとして何があるのか。

私がソウルで見たものは、今まで考えもしなかったことであった。

箱庭療法はこれまで治療者はクライエントの箱庭への取り組みを見守るだけで、クライエントの心の自然な発展に任せることが多く、治療者からの圧力をかけることはなかった。そのような自然な箱庭療法に対して、治療者の方から圧力を掛け、積極的に箱庭を作らせるというやり方があった。

 

ソウルで私を迎えてくれる箱庭療法の研究グループに韓国発達支援学会がある。会長はソウル発達支援センターのカウンセリングセンター所長朴先生である。

朴先生が、日本から箱庭療法の先生が来るので、それまでに箱庭療法の研修を受ける人は10回箱庭を制作しなさいと指示すると、指示された人は研修の日までに10個の箱庭を作らねばならない。韓国は儒教の国で目上の人には絶対に逆らえない文化であるから、会員に対する要請は相当に厳しいのではないかと思われる。みんなが言われるように箱庭を制作していた。

昨年ソウルに行ったときは8人の学会の主要なメンバーが3ヶ月くらい掛けて、それぞれ10回の箱庭を作っていた。研究会で会員が自分の箱庭を発表し、私がコメントをするというものであった。そのときは研究会のメンバーが自ら箱庭療法を経験することは良いことだ、それも10回とは強い念の入れ方だと思った。

今回は、朴先生に指名された6人の臨床心理士が箱庭療法を経験していた。私の訪韓の連絡が遅れたせいもあって、指名された6名は1ヶ月足らずの間に10回の箱庭を作らねばならなかった。時間的な制約が厳しいために、最低でも3日に一回は箱庭を作らねばならない。ひどい人は1日に3回、朝昼晩と箱庭を作って、間に合わせていたのには驚いた。今回もみんながいるところでそのシリーズを見たのだが、結構興味ある展開をしていたので驚きであった。

1日3回箱庭を制作して、それでよい展開があるということが私に驚きであった。もしかしたら、1月に1回、3ヶ月に3個の箱庭を作るよりも、1日に3回作る方が深層心理に達することができるのではないかという考えが浮かんだ。

私たちが箱庭を作るとき、自我防衛が働き、深層に入ることがためらわれる。そこで1日3回も箱庭を作ると、ためらいはなくなり、何とか作品を心の中から捻りださなければならなくなる。無理な心の探求であるが、自我防衛を突き破って、深層の心に入っていけるのではないかと思う。1日に何回も箱庭を作って深層の心を引き出すこの方法を集中箱庭療法と呼ぶことにする。

 

集中的な心理療法としては、他に集中内観がある。

この積極的箱庭療法は朴琅圭先生の強い圧力の下で可能だった。これ程の圧力を私たちはクライエントにかけることができるだろうか。もしかけることができるならば、日本でも積極的箱庭療法を行った方が良いと思われる。

この積極的箱庭療法の良いところは、短時日の間にとにかく前のものとは違う箱庭を作らねばならないので、自分の内部から、何か新しいイメージを引き出すことになる。そこで人々はより深層の心へと目を向けることになる。それが箱庭のプロセスを進行させるのではなかろうか。

 

上記の積極的箱庭療法と比べると、箱庭療法セミナーで箱庭療法を学び、箱庭療法に取り組む人の姿勢にいろいろな段階があることがわかる。ある人は、これは素敵な方法だと情熱的に取り組む、そして何かができる。

しかし、残念ながらこの情熱は時間と共に消える。あるいは次の珍しいものに目が行くとさめていく。そしていつか省みられなくなる。多くの人がこの道をたどっている。

ある人は箱庭療法がどういうものかわかる。箱庭療法をいつか機会があったらやってみようと思っている。そして箱庭療法でもやってみようかということになる。そして意外な展開となり、箱庭療法をやって良かったと思う。後でこの事例は箱庭療法しかできなかったのではないかと思う。でもしか箱庭療法である。

昔でもしか先生という言葉が流行ったことがある。不景気の時代、先生の給料は安かった。(先生の給料が一般公務員よりも高くなったのは昭和40年代田中角栄首相のお蔭である)。だから、先生にでもなろうか。先生にしかなれないという時代だったのである。デモシカ箱庭療法はこれと同様、心理療法の治療関係が沈滞しているとき、つまり、不景気になっているときに採用されるのである。

 

情熱とかやる気とかは感情のレベルである。それに対して、箱庭のイメージが出てくるところは感情のもう一つ下の、心の空白に見えるところ、この深層の心に目を向ける必要がある。何を作ろうかと思うときに何も思い浮かばない。そこに関心を向け続けることによって何かが出てくるのである。心理療法とは未知の可能性に向かって進んでいるといって良い。

心の問題が何であるか見えていることもある、けれども解決法がわからない。これが本当の問題だと思っているとそうでないこともある。問題は何かそれさえわからないことがあると、問題探しからしなければならない。こうしてみると、事態を客観的にしっかりと見る力、つまり、心に対する冷たい見方、共感的な態度を超えて、それをも客観的に見ていることが大切である。そして未知の可能性に向かって、何もない空白に向き合うことをしていかないといけない。

 

ここでは情熱とかやる気とかではなく、しっかりした歩みが大切であると思う。このことを考えるのに、箱庭療法への動機付け(motivation)と言おうとしたが、そうではなく箱庭療法への構えとした方が良いと感じた。