臨床心理士として心を対象に仕事をしているので、心とは何か考える。心の中を覗いても何もない。心の中を覗くといっても目で見るわけではない。心の目で見るのだ。そうすると心は心の内を見る機能も持っていることになる。
心には見るという働きがあることになる。
心の中を心の目で見ても何もない。何もない心の空間が広がっているだけだ。この空間は心の空間であり、心は空間でもあるのだ。その広がりは、外的な世界を包み込むと同時に、過去現在未来という自分軸も含めると、三次元空間に過ぎない外界の世界よりも遥かに大きな世界を内包していることになる。ユングは普遍的な無意識を想定し、そこには人間発生以前の経験も含まれていると考えた。それはユングの単なる理論的な考えではなく、個体発生は系統発生を繰り返すという仮説に支えられているし、胎児の顔の研究に取り組んだ三木茂夫はその変化の様子を胎児の写真で示している。だから、われわれの心には爬虫類の時代からの記憶が繰り込まれているのではないか思わざるを得ない。
何もない心の空間に、ここに書くような何から唐突に湧いてくる。少し前まで何も考えていなかったことが湧いてくる。何を書いて良いかわからないから、とにかくワープロの前に座り、ワードを開き心とは何かと書いてみる。すると次に書くことが出てくるという具合である。しっかり考えて書くという人もあるが、こうして出てくるものがまとまるのを待つのも一つの書き方であろう。考えはこうして泉のごとくに働いている。少し掘ると湧き出てくる泉である。何もない向こうから出てくるので、何もない向こうのことを無意識というのであろう。この無意識が無限の広がりを持っているらしいのである。フロイトは過去の経験の蓄積しているところと考えた。それも個人的な経験の範囲でフロイトは考えた。神経症のレベルではそれで十分であったろう。しかし、統合失調症のレベルで考えると、個人の経験だけでは到底説明がつかなくなって、ユングは人類の無意識と言ってもいいような普遍的な無意識を想定しなければならなくなったのである。