ユングはcollective unconsciousということを考えた。河合隼雄先生はこれを訳するとき普遍的無意識と訳された。当初これについて木村敏先生らから集合的無意識と訳さないでいいのですかという意見があった。河合先生は普遍的無意識でいい、ユングはそれくらいの意味を考えていたのだと言われたように思う。
そして今、自分の臨床的な経験に照らしてみると、普遍的無意識と言えるほどの無意識もあるが、集合的無意識を考えなければならないと思うようになった。
例えば、家の伝統というものがあった。これは家族制度が壊れ、核家族化して忘れ去られる傾向が強い。でも、まだ、家族の伝統に支えられている人が多くいるのではないか。歌舞伎や能の世界はそうであろう。芸能人やスポーツ選手の二代目という人も少なくない。父母の代、祖父母の代、曽祖父の代から受け継がれた精神的な何かを背負っているのである。先代から受け継いだ精神、技、格式などが支えとなり、引き継いだ者がさらに良い芸や技能を発揮するということがある。これは先代から受け継いだ無意識の心の現象で、集合的無意識、あるいは、ソンディのいう家族無意識である。
最近虐待やアダルトチルドレンにいては世代間継承という現象がある。世代間で受け継がれる行動パターンである。虐待する親は虐待されて育っている。また、その親も虐待的な環境にあったものと推測される。スパルタ的な子育てがその家庭の伝統になっているのである。身体に染み付いた伝統的な子育てのやり方は意識的には中々変わらない。文化はきわめて変化し難いものであるからである。虐待やいじめがなくならないのはそのためである。
最近の親たちは心よりも勉強が大切だと考えるようになった。特にスペルガーと呼ばれる子どもたちの親は勉強第一と考えている。勉強さえすれば何とかなる。この考えはいつの間にか現代日本人の神話になりつつある。この神話は私たち日本人が共通に持ち始めた神話である。コンピューターを使いインターネットで生活していくには知性が大切である。感情の複雑さはコンピューターには合わない。知性万能の世界に私たちは突入し始めている。これは集合的な無意識になっているのではないか。無意識の傾向は私たちをしっかりと縛っている。普遍的と言いたいが、やはり文化の進化の先端にいる人の傾向ではなかろうか。
アスペルガー的なものの最たるものは、アスペルガーをいう言葉の源であるDSMⅢ-TRある。この本は精神疾患を体系的に分類した本である。元々は死亡原因を分類することから発したらしい。その後、アメリカで保険請求に疾患の分類番号が必要になった。さらに疾患と薬の効果判定の研究に利用されるようになった。
この本を読んで驚くことは、ここには疾患の分類は整然となされているが、読んでいて全く面白くないのである。分類識別の考えが書いてあるだけである。情緒的なものは極端に排除してある。この本の著者たちこそアスペルガーではないかと思った。このように感情的なものを一切排して知性だけで文章を書ける人をアスペルガーというのである。
ここに情緒を極端に排除して生きることのできる人間の出現を感じる。学校教育150年の成果が文明国といわれる国にこうして現れたのではないかと思う。感情の抑圧という集合的無意識が進行しつつある。
一方、感情の方の心の現象はどうであろうか。
多くのミュージシャンのコンサートは時には千人を超える大集団の熱狂的な興奮の渦となり、激しく燃え上がる炎のようである。コンピューターによって排除された感情は激しい炎となり、知性を忘れさせる熱狂的な音楽となり、密かにコンピューター社会を破壊するコンピューター・ウイルスの氾濫になるのではなかろうか。
これらは文明化された社会に起ってきた集合的な無意識の現象ではなかろうか。文化の進行と共に起こる無意識で、私たちが直面する問題である。一方、先に述べたように私たちが祖先から受け継いだ伝統という無意識もある。集合的な無意識の考え方も、過去の遺産だけでなくこれから当面する問題も含むことになり、集合的無意識の概念は未来にも広がって見えてきた。こうして私たちはフロイトやユングからやっと抜け出ることができるのである。