昨日の中日新聞には、野球評論家与田剛氏の話として、アメリカ大リーグでは二世選手は珍しくない、ボンズやグリフィーやフィルダーのような名選手の息子が大選手になっているという記事があった。恵まれた環境で、優れた運動能力を受け継ぎ、子どもの頃から一流選手の指導を受けるのだから、優秀な二世選手が出るのも不思議ではないと。
私たち戦後の世代は、艱難辛苦に耐え、自分を鍛え成長させると考えてきた。フロイトはエディプス神話を取り上げて、自我の成長には父親殺しが必要だと考えた。ユングも同じ考えを踏襲してきた。そして、ユングの門下ノイマン.Eは西洋の竜退治を母親殺しとも考えるようになった。河合隼雄先生も、宮崎駿の息子が作ったアニメ映画『ゲド戦記』の試写会後の宮崎吾朗氏との対談で「父親が最初に殺されるところが面白い・・・父親は殺されねばならない」と述べている。
何のために父親を殺さねばならないのか、その理由については明らかに書いてない。とにかく殺さねばならないというわけである。父親殺しには父親の否定という意味も含まれているのではないか。否定だけとしたら、息子の吾朗氏は艱難辛苦を乗り越えて自分なりの何かを作らねばならないことになる。ところが吾朗氏は同じアニメ映画の世界で自分なりの作品を作った。
吾朗氏は父親の下でアニメ作りの手法とたましいを受け取り、そのた手法とましいで『ゲド戦記』を作ったのではないか。父親の否定と自分の能力でというよりも、父親から受け継いだものが遥かに大きな要素をしめていたのではないかと思う。二代目の成功の要因は父親が築いたアニメ作りのたましいの継承にあるのではないか。
フレイザーの『金枝篇』の最初にローマ郊外の森の王の話が出てくる。この王は王位を引き継いで、まだ、十分に力を持っているうちに殺され次の王に引き継がれる。王の力が盛んなうちにその力が引き継がれることが大切なのである。日本のお相撲でも横綱は少しでも弱くなったら辞めるのが筋ではないか。横綱の地位を汚すというのではなく、相撲の神力を維持するためにである。今日お相撲は興行的になって面白ければいいということになって、お相撲の神様がいなくなってしまった感じである。
艱難辛苦に耐えることが大人物を作るかと言えばそうではないと、宗教評論家ひろさちや氏は同じ日の中日新聞に、イギリスの作家モームの言葉を引用して、「艱難汝を玉にす」ではなく、「艱難汝を屑にす」と述べている。日本の野球選手に二世の大選手が育たないのは野球選手の育成があまりに厳しいせいではなかろうか。与田氏はそこまでは指摘していないけれども。虐待に近いようなきびしい訓練では野球選手の偉大なたましいは継承できないのではなかろうか。
被虐待の事例を見ると、虐待が虐待を引き起こすと思う事例がある。子どもを虐待する親は虐待のような躾を受けていることが少なくない。虐待も、離婚も、非行も代々継承されていく傾向がある。その世代間継承から抜け出るには特別の目覚めが必要で、目覚めた人はその輪廻から抜け出していく。
今の私を省みると、フロイトに倣い、ユングに倣い、河合隼雄先生にならって今日の私がある。この心理臨床の世界で人の心について発見的な仕事をしていくということで、先達のたましいを幾分なりとも引き継ぐことが出来たのではなかろうか。次の世代を引き継ぐものが先代の精神を受け取り、さらに良い出会いと経験を積み重ねることによって新しい世界を開いていく。それは決して父親殺しというものではないような気がする。
フロイトにはエディプス神話のような過酷な経験があったのではないか。フロイトの精神分析は戦争が多かった21世紀にはふさわしかったが、平和な次の時代には新しい心理学が必要であると思う。