私にも確認強迫がある。家を出るとき玄関の鍵を閉めたかと気になる。車を止めて確かめるのだから大した確認強迫である。自分で確かめないと気がすまない。私は一回で済むがこれを何回も繰り返す人がある。ご苦労様と思う。
私には妄想傾向も少なからずある。思い込みが激しい。胸焼けがするだけで胃がんになるのではないかと思うし、痰が少し出ると肺がんの前兆ではと思ってしまう。人間関係も下手だから、ああだこうだと考えてしまう。今まで大切にしたものが見当たらないとそれに拘って執拗に探し物をする。そのものが机の上に見つかったりする。ちょっと視野を広げれば良いのに、ものがないという一点に拘って見えなくなってしまうのである。執着性が強くそれに空想性が重なると妄想がおきても当然である。
私のもとには強迫性を持った人もお出でになるし、そういう事例のスーパービジョンをすることが少なくない。
私の確認強迫も玄関の鍵を閉めていないのではないかという妄想である。強迫症も妄想も根は同じものである。
これを発達的に見てみると、幼児期には空想は遊びの中で行動と一体になっている。学生の子ども時代の思い出の中に、押さないときに空飛ぶマンガの主人公を信じていて、窓から勢い良く飛び立って、家の前の小川に落ちたという記憶が書いていあった。真に愉快なことであるが、ご本人は小川に落ちて大変だったろうと思う。
小学校の3,4年生から空想が広がり始める。人はどこから生まれてくるか、人は死んだらどうなるのかと質問する。トイレにはお化けが居るとして恐くなる。こうして現実でない心の世界が開ける。小学校高学年になると本当のお母さんはと考え始める。女の子にはお姫様空想が、男の子には英雄空想が広がり始める。
精神的な思春期に入り異性への関心が芽生えると共に恋愛感情が芽生える。自分はあの人が好きであると感じる前に、あの人は私に関心があるのではないかと考える人もある。そして、その思いが強くなるとあの人の一挙手一投足が自分と関係付けて考えられるかもい知れない。恋愛感情は強烈なので恋愛妄想は一挙に盛り上がる可能性がある。
恋愛衝動は年齢が若ければすぐに行動に結びつくが、大学生くらいになって発現すると行動的には抑制されるので、恋愛妄想だけが先走りしたりする。学生時代に勉強ばかりしていて、あまり男らしく振舞うとか、女らしくせず、ただ人間であればいいと考えて成長してきた人はある日突然異性に目覚め、異性に攻撃されると感じたり、恋愛感情に取り込まれてしまったりする。
恋愛妄想も妄想といえば妄想である。医師は病を治療する役割の人だから、人が病気だという治療的にかかわることしか考えない。妄想がどのような意味を持っているかを考えずにそれを治す、つまり妄想をなくしてしまおうとする。
しかし、心理学的に見ると、社会に生きる人格の一面として、想像する能力を認めなければならない。想像力は現実に根も葉もないものは空想と呼ばれる。それは非現実的なもので考えないようにすれば消えるなら安全である。しかし、執拗に繰り返し、繰り返し出てくる空想は妄想的で、本人も非現実とは感じながら本当と思いたいところが出てくる。そうなると精神科医はそれを病的として薬で消してしまおうとする。最近はどうやらそういう薬物療法が行われているのではないか。
それに対して、最近私は遊び⇒空想⇒妄想という図式を作った。
このうち遊びはイメージと行動が一体化したものとしてすぐに理解できる。
空想は最近のロール・プレイイング・ゲーム(RPG)でわかるように中学生や高校生が嵌る遊びである。彼らはこのグループ遊びでかなり遊び心を発散している。
小説家は場面設定を考え、想像を活性化させ、登場人物が自ずから動き出すようになれば小説は成功したと評価されるようである。つまり心の中でのRPGである。
恋愛感情に取り込まれた人は相手への片思いの中で一人RPGを行っていると思えばよい。それならば、存分に恋愛RPGの中で自分のイメージを遊んでもらえば、子どもの遊びや青年のRPGが完結するように、恋愛妄想も完結すると考えた。つまり妄想を消さないで妄想をより良く生きて自分の満足が得られるようにすれば、青年期の一時期を無事通過できると考えるのである。リンドナーの『宇宙を駆ける男』はそのような事例であり、実際に有名人と敏感関係妄想的に悩む人も、その話を大切に聞いてもらうことによって成長して行った。
この際大切なことは自分の切ない思いを客観的に見る自我の主体性が失われないことである。自我の主体性がある限りどんな苦境でも耐えられるのではないか。薬物療法がこの自我の客観的な観察力を持つ主体性を弱体化させなければ幸いである。
遊びはエリクソンが言うように、傷ついた自我の修復のドックであり、自我がより大きく自分の世界を広げ、自由で主体的になる場である。妄想も人格の拡張や修復の試みの一つであると考えると、対応の仕方も変わってくるのではなかろうか。
最初に取り上げた強迫症状も自分で自分を安心させるための行為である。人に頼って安心することができないから自分で自分を安心させているのである。もし強迫症状を薬で取り去ることができるなら、強迫に代わる安心の手立てを治療者は与えなければならない。それをしないと、一つの症状を消すと代わりの症状が出てくるに違いない。
このような考えから私は強迫症状は治さないで大切にとっておくことにした。そして、強迫症状さえなければ人生はもっと面白くなるのにと考えて、行き詰っているその人の人生を考えることにしている。
自分にこのことさえなければ、こんな家にさえ生まれなければ、こんな人とさえ出会わなければ、もっと有意義な人生になったはずだと考えている人は多いのではないか。私が探し物をして、すぐそこにあるものが目に入らないように、案外いいものが自分の身近にあるのではないかと思う。
こういう訳で、私の相談室には本当に心を探したい人だけが来てくれるといいと思っている。