河合心理学ー自我論の一端

 先ごろ雑誌『臨床心理学』のために「ユング心理学と河合心理学」と題して一文を書いた。(来年1月発行予定である)河合心理学をユング心理学と対照して述べるには20枚という制限のなかでは到底書ききれないので、違いを述べるのをやめた。自我論や中空構造論を述べるとそれだけでも20枚を越えるのではなかろうか。

 フォン・フランツにユング研究所では“無意識、無意識”というので困っていないかといわれ、先生は、自分は日本人だから無意識は昔から知っているが、研究所の“意識”に困っていると答えたと書いてある。これは冗談ではなく、日本人の心理を考えるとき、すごく考えなければならないことであると感じられたのである。帰国後、ユング派の立場から対人恐怖について論じた最初の論文が出てきた。私でもこんな学術論文が書けるということを示されたのだと思う。それは当時の『臨床心理学研究』ではなく、岩波の雑誌『思想』に掲載された。先生はこのときから臨床心理学領域だけでなく精神医学も超えた広い領域の人と共に考えていこうとする姿勢があったと思われる。ここに最初の先生の自我論が出ている。

 自我を出そうとして失敗しているのが対人恐怖であると述べてある。そして一般の日本人はというと、一応西洋的な自我を表面取り入れたものの、基本的には平安時代とあまり変わることのない生き方をしており、無意識の心を敏感に感じ取る生き方をしていると考えられていた。

 「私は、日本人だから無意識については知っている」ということに読者はびっくりされないだろうか。多くの人がフロイトを学び、無意識について研究しているとき、無意識については困っていないというのはすごいことではないか。これを表に出すと、フロイトを学ぶ人を否定することになるのだが、河合先生を前にしていると誰も先生がそんなことを言っているとは考えていなかったのではないか。例えば、隠された意図、それについて日本人はすごく敏感である。最近の国会予算委員会での証人喚問で役人は関係業者から200回に及ぶゴルフ接待を受けたことは認めたが、仕事に関して便宜を図ったとはないと答えた。新聞の字面を読む人は信じるが、下心を読む人は、便宜を図ったことがないと、意識しないほどに普通に便宜を図っていたと読むだろう。それが古い日本人の読み方であり、便宜を図ったことはないという言葉をそのままに受け取る人は現代日本人である。その違いを証人はしっかりと利用している。また、言葉を重んじる近代日本人であろうとする、リーダーとしての国会議員は言葉を信じる世界に生きている。新聞屋さんも同様である。

 そういうことはこうして考えてみればわかるが、現代日本人の人でも遠山の金さんが200回のゴルフ接待を受けたことは業者と癒着していたと見て、断罪することに喝采することだろう。テレビを見ているときは旧日本人に返るのだから不思議である。

 

 われわれはこのレベルに生きていると河合隼雄先生は見ていられたのだともう。しかし、これもいたずらに主張するといやみを買うので、さらりとかわしておられたのである。