嘘の必要性

 最近は癌の告知が本人になされるようになった。本当のことを知らないまま死んでいったように見えながら、患者本人は命があまりないことを知っていて着々と死の準備を隠れてしていたという話がある。孤独だが、すばらしい生き方だと思う反面、これを周りの人々と話し合いながら進めていくことはまた大変なことだと思う。真実を話しても、嘘をついても大変なのだ。

 老人になって自分がだんだん動けなくなる。人とも付き合いたくなくなる。人と話したくないし、顔を合わせることもしたくない。足が痛い、腰が痛いという。それを認めてほしい。

 ところが、病院に行って検査してもどこも悪いところはない。血圧も皮膚の乾燥も歳相応ですよといわれる。痛みは神経から来ているから、精神科に行きなさいといわれ、受診するとやはり神経からですといわれ、薬を処方される。薬は飲みたくないけれど、お医者さんがくれたものだから飲まないといけない。これを断ると、金輪際診ていただけないと思う。精神科の患者にされてしまったこの不名誉をどうしたらいいのだという内面の声が聞こえる。

 こんな人には、検査結果は今のところ異常はないけれども、血圧が少し高めだからどこかに病気が隠れているかもしれない、今私たちにわからないので様子を見ていきましょう、薬も弱い薬にしておきましょう、眠れないといけないので良く眠れる薬も出しておきましょうと言ってもらうと、少しはホッとするだろう。病気を理由に益々部屋に閉じこもることになるが、歳をとって惨めになったこと、人に会うのがわずらわしくなったことを身体の病気のせいにして、病気の自分を部屋の中で大事にすることができるだろう。そうすると少なくとも、少しは自分の部屋に落ち着くことができるのではないか。落ち着くと、今日は天気がいいので少し外に出てみようかという気が起こってくるかもしれない。部屋から出られないけれど、部屋を訪ねてきた人に愛想良くすることができるかもしれない。だから、嘘でもいいからこの人を病人にならせてほしいと思う。

現代の医療はインフォームドコンセントで、真実を伝えることを旨としている。しかし、患者の気持ちを考えると、もっと言いようがあるのではなかろうか。

 解離性障害とは昔のヒステリーのことである。解離とは心と考えや行動が解離していることを言う。心に一致していないから、嘘をついていることになる。これを嘘の範疇に入れないで、障害に入れてしまうことで、うそに対する本当が見えなくなってしまうので困る。DSMが治療につながらない理由は何でも障害と言ってしまい、何故そうなっているかを考えないところに問題がある。行為と裏腹の心を読めば自ずから対応の仕方がわかってくるのではないだろうか。

 心を読むとやさしさと手間がかかり、効率が悪くなる。現代の医療も心理臨床もあまりに心の真相を直視しすぎるのではなかろうか。検査結果に問題がないからそれは神経から来ている。神経から来ているから精神科の薬を飲みなさいといわれても、精神科の患者になったその不名誉は薬ではどうにもならない。

 心の問題をうまくオブラートに包んで、現代医学でもわからない病気があるのだから、ゆっくり考えていこうと病める人に協力を求めることは大切なことだと思う。

 実際、皮膚科の疾患の多くは原因不明ではないか。私の正常眼圧の緑内障も本当は原因不明である。痛みの多くはどこから痛みが来るかわからない。私の妻は雪の日に転んで、それ以来右足が痛く、十分に曲がらない。検査結果は異常がない。マッサージをすると深いところにある筋肉がつっていることがわかる。それを少し強く押さえると痛がる。筋肉に緊張が残っている。何故つっているのか原因不明である。身体の見えないところにいっぱい湿疹ができている人もやはりどこかに緊張があってアンバランスなところがあるのだろう。これらの痛みや症状を神経だ、心の問題だといって言ってしまうところに問題があると思う。

 現代科学に視点をおく人は何事もわかるはずであるという神話的な考えを持っているのではないか。だから、わからないと一足飛びに神経だといってしまう。そこに問題があるように思う。また、解離性障害の背後にある隠された心理を取り上げて苦しいところを直視させようとするから厄介になるのではないだろうか。これは、自分自身を知れ、真実を生きれば幸せになるという神話的な考えに法っているのではないか。真実はあまりに苦しいから、別な生き方を考える、そういう虚構の生き方もあるのではないか。嘘をつく、あるいは、真実の一面を見ない生き方があるのではないか。そういう生き方を視野に入れた心理学を私たちは考えなければならないのではなかろうか。

 嘘の心理を無視しているのではないか。嘘、つまり、心と考えや行動が解離した現象を健康な心の一部分とすることによって人は随分と楽になるのではなかろうか。河合心理学は嘘を入れ込んだ心理学ではないかと思うがどうであろう。

(ヒステリーと嘘のことを考えてこの一文を書き始めたが、今行き着いたことはここまでである。この先もっとわかりやすいものにしたい。できれば、ヒステリーの人間性を認めるところまで行き着きたい。)