夢は神仏のお告げ、つまり、夢告として大切にされてきた。夢には雑多な、いわば小さい夢と、夢見る人の人生を左右する大きな夢とがあり、昔は夢を慎重に考えていたようだ。フロイトは夢を解釈し、夢から連想を進め、無意識の心を探求した。ユングは夢には無意識と意識、内界と外界を結びつける超越機能を認めた。
私は夢に経験をまとめる機能があることを認めたいと思う。
私はある学会のある偉い先生に会って話をした。その先生は社会的にも学問の世界でも活躍している先生であった。先生に会った翌日の朝、印象的な夢を見た。見終わった瞬間、「あ、この夢は先生と会ったその印象である」と思って書きとめた。
“私は友人と二人である国会議員にあった。その人はちょっと挨拶し、その後ゆっくりしていってくださいと言って出て行った。私たちは建物から出て、外に広がる広大な公園を見て周った。ここは有名なところらしく、方々から来た観光客、女ずれや家族ずれが三々五々歩いていた。花は大方終わっていたが、ツツジやあまり高くない樹木など植えられた豊な、広々とした公園であった。坂を上り、かなり見物したところで雨が降り出した。雨をよけるために右側の斜面に建てられた古い校舎のような建物の中を抜け、平らなところに出たら雨はやんでいた。駅の方に向い、これから帰途につく。”ところで目が覚めた。
この夢に見た情景は私が昨夜会った先生のイメージであると思った。先生の風貌と話の内容をこのように捉えたのではないかと思って記録した。先生は国会議員のような権威もお持ちである。近寄りがたいのですぐに別れて、公園に出た。先生のお考えはすでに花の盛りを過ぎているけれど豊な茂りと広さを持ち、さらに私たちが通り抜けていく建物は古びているものであるけれども、ここを通って行った方が良いと私たちは判断したのだった。
これまでにも人に会ってその後印象的な夢を見ることが多かったので、夢からその人柄を考えることをしている。
最近、江戸時代の生活を研究していた杉浦日向子さんの『杉浦日向子の江戸塾』を読んで面白かったので、いろいろな本を取り寄せて、先ず『合葬』を読んで寝た。これは徳川幕府が終わった後、大村益次郎の官軍と戦った彰義隊を内側から描いたものである。全くの負け戦で、潔く死ぬことを美とする武士の世界を描いたものである。これを読んで寝たら、気持ちの悪い夢を見た。
“岡を登って行くと、鉢巻を締め腰には刀を差した武士の一隊が整列していた。そこを過ぎて岡の裏側に回ったところに直径10メートルくらいの岩の窪みがあった。岩の間には枯れ葉が僅かに散っていた。そこを良く見ると黄土色の銛のような頭の形をしたヘビが2匹いた。2匹は元気なく、まるで何かで作ったもののようだった。近寄ると何をされるかわからないので、私は底の方から上に上がった。所々同じようなヘビがいた。元気が無かった。岩は少し緑がかっていた。”
この夢は、杉浦日向子さんとそのアニメの世界を現していると考えてよかろう。緑がかった大きな岩の窪み、そしてどこか作り物のような、銛の形をした頭の番のヘビは杉浦日向子さんではないか。彼女の知識は豊だったがあまり活き活きとしていなくて、頭もきれる方ではなく、槌に近いような銛で叩くような学問をしていたのではないかと思った。きれい味が良くない。私たちの意識をドンと揺さぶるところがあり、江戸への関心をそそるが、もう一つ深まりのかけるところが淋しい。一人で学問をしているとこの深さなのかと思った。
以上は人のことだが、夢は自分との関連でも出てくる。テレビのドラマや本で読んだことも滅多に夢に出てくるものではない。夢に出てくるのは自分と関連があるからだと私は思っている。
だから、杉浦日向子さんの印象の夢も、私が書いているこのエッセイが、岩のように頑なな考えで、また、どこか作り物のような、活き活きしたところのないものになっているのではないか、読者をヘビの室に入れるようなことをしていないかと危惧しなければならないと思った。皆さんのご意見を伺いたい。