高橋たか子が書いた思春期の心理ー女性の友情

 カウンセラーのための100冊の本を私が作るなら高橋たか子の本を必ず入れることだろう。『誘惑者』、『ロンリー・ウーマン』、『空の果てまで』この三部作は知的な女性の心理を深淵まで描き出したものではないかと思う。

 『誘惑者』は偶々週刊誌で読んだ加藤秀俊の昭和史の瞬間に出ていた、専門学校女学生の二人のクラスメートへの自殺幇助の記事に触発されたものであった。女学生は二人を一ヶ月の間をおいて、三原山で自殺幇助をした。読んだ「その内容が私の存在全体を巻き込んだ。内容が、というよりも、内容をとおして私の汲みあげたものが、というべきか。ふらふらと毒を吸ったような気分で、私は框から腰をあげ、土間に立ち上がった。・・・・そのとき、私とともに、私の中に、いのちの塊のような誰かがすっと一直線に立ち上がった。その自殺幇助をした女学生だ、という気がした。私はその女だと思った。この私はその女だ、という理不尽な、強い一体感は、ただちに、その女を主人公にしていつか長編小説を書こうという、はっきりした意図へと移行した。」と高橋たか子は述べている。

 高橋たか子は「大変なものを書いてしまった」と思ったが、出版されてみると、「たちまち知っている人々や知らない人々からの、手紙や電話で、評判がいいとかのレヴェルではない、もっと奥深いものが一斉に伝えられてきた。・・・声をそろえて、・・。自分もそうだ自分もそうだ」と。この本には、女性たちが自分もそうだと叫ぶ深層の心が描かれている。私はこういう心理を心理学の本では今まで見たことがない。この本には女性の心理が生き生きと描かれているので是非読んでもらいたい。

 『誘惑者』はその書き方が男性的であると吉行淳之介さんは批評したとある。内面を凝視して掘り下げ、心の深層に広がる海から押し寄せる波のような心の語り掛けを物語りにしたという点で男性的だと私は思う。内容は女性の心、アニムスの世界の探求である。

 そこには3人の女性の親密な関係が描かれている。それは自殺幇助にまで至るようないのちをかけた親密な関係である。

 3人の女性は、文中、鳥居哲代、砂川宮子、織田薫とずっとフルネームで書かれている。一人ひとりの個性を重視した書き方である。女性一般ではなく、個性を持った時代の生き方を語るという意味もあるのではなかろうか。

 主人公鳥居哲代は女専を出て旧制の京都大学に入った歳で、20歳である。たぶん勉強ばかりして、未だ思春期の同性愛の中に浸っている女性である。

 鳥居哲代は京大に進むようなとても知的な女性で、考える人である。何故死にたいか、その心の構造を知的に考えわかろうとする人である。

 その友達、砂川宮子は母親と一緒に居られず京都に出てきた人である。彼女は母親に結婚を勧められ、母親に会いたくなくて死を企図する。感情的に反発する人である。

 砂川宮子は、鳥居哲代が口にした火山に惹かれて三原山で自殺しようと企図し、二人は日を決めて、京都駅で落ち合い、列車と船を乗り継いで三原山に登り、砂川宮子は火口へ入って行き、自殺する。

 砂川宮子は、母親が結婚を勧めに京都に出てくるので、母親に会うために鳥居哲代に一緒に会ってほしいと懇願する。しかし、鳥居哲代は行かなかった。それなのに京都駅で待ち合わせたとき、鳥居哲代が先に行って砂川宮子を待っていた。後で砂川宮子はあなたが来なかったら私は一人で帰ったという。そんな話をしながら、砂川宮子は死への道を歩むのである。

 火口に至って、砂川宮子は「私はね、あなたのせいで死ぬのよ」「あなたがいなければ、私は死ぬことはないんだわ」と。

 鳥居哲代は、それを聞いてさあっと醒めて、「あなたは死にたくなければ、戻ればいいんだわ。・・・何もかも妄想だったのよ。私たちは二人で火山を見に大島へ遊びに来たのよ」と言った。

 砂川宮子は「何を言うの。いまさらそんなことはできないわ」・・・「なぜ死ぬのかって?私を死なせる張本人のあなたが、なぜ死ぬのかって訪ねるの?」・・・「私はね、あなたが京都駅に来ないんじゃないかと思ってた。でも、あなたはきていた。少しも私の意向を訊ねもしなかった」「船の中で、・・・私が物心ついて以来のことを喋った時、あなたは何もかもわかってくれた。私はわかってほしくなかったのよ。誰もわかってくれる人がいなければ、わかってくれる人が見つかるまで、きっと私は死ななかったわ。あっけないほど、あなたはわかってくれたから、もう私はもぬけのからのように安心したのよ。」・・「いいえ、それだけじゃない。それまでも何もかもが、そう。あなたという人は、何でも私の話を聞いてくれる、相槌を打って、一つ一つ私の言葉を呑み込んでくれる。あの理解力。まるで底なしの沼みたい。あなた自身が死にたいみたいに、私のなかの死を抱擁してくれる。あなたはすこしもすすめはしなかったけど、私を死ぬ方へ死ぬ方へと仕向けてきた。あなたが誘惑したんだわ。そうじゃない?あなたに向けて死にたいなどと言ったが最後、私は網死なないわけにはいかないところまで追いつめられた。あなたがここまで追いつめたのよ。私自身はどうでもいいものだった死を、あなたがここまで煮詰めたのよ。そうよ、あなたといっしょにいると死にたくなってくる。ああ、もうよして。ほっといて。私は勝手に死ぬから。あなたとは関係なしに、私自身で死ぬから。もうこりごりよ、あなたって、しつこい人。なぜ、ここまでついてきたの?」と言って、火口の中に消えて行った。

 砂川宮子は外罰的な人であろう。けれども、砂川宮子の最後の言葉は高橋たか子が心の深層からくみ上げた言葉で、私はここは大切だと思うから、そのまま引用した。この本は今絶版で手に入らないから、この引用で読んでいただかなくてはならない。

あなたはわかってくれたから、私はもぬけのからのように安心した。

 私の話を聞いてくれる、相槌を打って、一つ一つ呑みこんでくれる。あなた自身が死にたいみたいに、私自身のなかの死を抱擁してくれる。少しもすすめはしなかったけれど、死ぬ方へ追いつめてきた。あなたと一緒にいると死にたくなってくる。もうよして、こりごり、しつこい人と捨て台詞を吐いて砂川宮子は死んでいった。

 

 このような会話のプロセスは極めて女性的な世界ではないかと思った。男性では、現実にはもっと利害関係が主となるのでこのような会話にならないのではないか。男性も、師と弟子のような親密なたましいの関係になるとこのようなことが起こるのではなかろうか。

 

 この二人の関係には、自他の区別もつかない、深い心のつながりがあったことが伺える。小説家が深い層から湧き上がってくるイメージを言語化したのだから当然といえばそうだが。「意識の表層ではなく、深層に潜入していって小説を書く人は、これらの性質も出所も異なるイマージュが、共時的に湧き出てくる現場に立ち会って書いている、と、私は体験的に言える。」と高橋たか子は言っている。

 高橋たか子が、心の深層からくみ出したものはあまりに強烈で、多くの読者の共感を得た。深層の心は自他の区別のない無差別の心だから、そこからくみ上げられたものは多くの読者の共感を得るのである。

 私も上に引用した文章を読んでいたく感銘を受け、この文章を書くことにしたのだった。

 私の心理学的な目で見ると、思考タイプと感情タイプの二人の女性の対話をとしてとても興味深い。

 思考タイプの人は言葉で考え、気持ちに引きずられる。感情タイプの人は気持ちで動き、言葉に引きずられる。

 砂川宮子は鳥居哲代の言った言葉に引きずれて、引っ込みがつかなくなる。鳥居哲代は相手の気持ちをわかっているわけではない、ああそうだったのかというぐらいに受け取っているだけだ。気持ちの話した方の砂川宮子は、自分の気持ちをありのまま素直に言ったことによって自分のすべてをわかってもらった気になって、空っぽになった。だから死にたいという気持ちもすべて掬い取られて、死ぬ以外になく、死ぬ気持ちを煮詰められたのだと思ったのだ。だから、最後にはもう付き合うのが嫌になって、一人で振り向きもせずに火口に向って行った。悲劇的な別れである。

 これが自殺でなかったら二人はどうなっていただろう。きっと親密な関係になって、砂川宮子は自分の道を歩んで行ったのではなかろうか。

 

 

 次に、もう一人の友人織田薫について見てみよう。

 織田薫は、砂川宮子の消息が途絶え、旅に出たことがわかって、死ぬための旅に出たと直感する。そして、鳥居哲代から砂川宮子の死を聞き出し、自分も砂川宮子とまったく同じようにして死にたいと考える。

 織田薫は21歳の誕生日に死ぬことを決意し、鳥居哲代と共に三原山に向かう。織田薫は鳥居哲代に砂川宮子と何もかも同じようにすることを要求する。砂川宮子と一体化しようとするのである。列車では同じような位置に座り、品川で降りて芝浦桟橋に行き、間違いに気づかされたように、品川で下車し芝浦桟橋の方へ行き、同じところで芝浦桟橋のことを人に聞き、改めて月島桟橋に向う。大島で違ったのはおにぎりだったのをお弁当にしたこと、天気が快晴でなく曇っていたことくらいである。そして火口についてからが違う。二人は共に火口の縁に下りて行くことになり、ついには織田薫がどうしても自分では死ねないので、数を数えるから後ろから押してくれという。織田薫は数を数え始め、とうとう21で鳥居哲代は織田薫の背中を押してしまう。鳥居哲代は本当に自殺を幇助してしまうのである。

 

 この経過を見ると、織田薫は砂川宮子が通った道をまったく同じにたどって死にたいと思う。その意味では、織田薫は砂川宮子にぴったりとくっついていたいのである。女性の同性愛的な感情とはこんなものではなかろうか。

 織田薫は過去に2回睡眠薬を多量服薬したが果たせなかった。そ点では行動的であるが、砂川宮子とは対照的に内向型である。現実は暗いが向う側は明るいと夢想することができる人である。砂川宮子と鳥居哲代は喧嘩別れになるが、織田薫とは最後には一体化する。

 鳥居哲代、砂川宮子、織田薫の3人の女の関係は現実には難しい。二人がくっつくと一人は外れる。最初は鳥居哲代が外れていた。ところが砂川宮子がいなくなって、鳥居哲代と織田薫の二人になったら、二人は一緒に火口のぎりぎりのところまで一緒に歩むことになり、最後には、鳥居哲代は織田薫の体を手で押してしまう。身体まで触れるほどに一体化して、織田薫は死んでいったということができる。

 このような一体化のなかに女性は愛を見出しているのではなかろうか。自殺幇助のなかに本当の愛を高橋たか子は見出したのである。これは愛の極みの一つであろう。

男だったらどうなるのだろうか。男だったら死にたければ死ね。自分で潔く勝手に飛び降りろということになろう。

 

 高橋たか子が自殺の幇助のなかに見出した愛はどんな愛なのか。

 それは思春期の女性の同性愛的な愛ではなかろうか。

 砂川宮子は、母親と一緒にいることが苦痛で、結婚が嫌でこの世から逃げ出してしまう。

 鳥居哲代は悪魔学の本で、夢魔の絵を見て、それが強烈に印象に残る。

 その絵は、「無限の夜を暗示する黒のなかに、眠る女と、光る馬の首だけ」の絵で、「眠る女がひどく苦しげであるのは、その馬の存在と深いかかわりがあるらしかった。」「悪夢というのは熟睡中に悪魔と姦淫することらしかったが、鳥居哲代は別のことを考えた。眠っている人は、醒めているときに自分で統制していた自分を超えた、不可知な自分というものを無限の夜のなかに晒している。自分の力でどうすることもできない、そんな自分の冥暗の領域に、この馬の首のような何かがかかわっている。この絵はそのことを表しているに違いない。見れば見るほど象徴的である。」と。

 この悪魔の本を書いたのは松沢龍介(澁澤龍彦)で、この絵は悪魔との姦淫を象徴しているのであるが、鳥居哲代は、悪魔との姦淫を正面から見ることをせず、女と馬の首だけに意識を注ぐ。そこに性の回避が伺われる。

 姦淫ならば馬の下半身が問題ではないか。性は暗闇に塗り籠められたままである。つまり、肉体レベルの結婚を砂川宮子同様に鳥居哲代は回避しているのである。ここに高橋たか子の精神的な成熟の問題が推測されると思う。カソリックになった後に書かれた『きれいな人』でも性に関してはまったく素通りである。それは娼婦のレベルのことだと考え、未だ、人間誰にでもあるレベルでは悩んでいないのではなかろうか。

 そこが高橋たか子の限界であるが、女性の思春期の同性愛的な関係を生々しく取り出して見せたという点では、フロイトやユング、女性を研究したへレーネ・ドイッチやメラニー・クラインがやらなかったことを見事にやってくれたといえるのではなかろうか。

 思春期の男性については、ハリー・S・サリバンがかなり書いてくれいているらしいが、本書は女性の思春期の心理の本としてはかなりのレベルのものだと思った。

 

 本書の織田薫の夢からもわかるように、高橋たか子はユングの自伝を読んで相当に影響を受けていることがわかる。内面から沸き起こってくるものを捉えるという点で極めて内向的で、言葉と感情、現実と夢想の関係を心の現象として描き出しているので、臨床心理士の皆さんに推薦する次第である