家族を大事にする人々はどこの国にもあると思うが、外国の文化がわからない私は取りあえず家族のことをばかりを考えて生きる人を配慮型日本人と呼ぶことにする。従来、日本人は家族のため、会社のために生きてきた。ところが、家族や会社など自分の所属集団のために生きることは馬鹿らしくなってきたのではなかろうか。配慮型の人は損をする時代になったのである。自分勝手に自分のために生きるそれが何よりも大事になってきたと私は相談室の経験から考えるようになった。
私はかって箱庭に表現されるイメージを内的生活空間の表現であると論文に書いて発表した。その論文の土台となったのはAさんの緘黙症の事例であった。その箱庭療法の事例の第1回の箱庭の表現内容を見たとき、そこにはクライエントの女子中学生の家庭の状況が現れていると思ったのである。彼女はどう見ても諍いを起こしている複雑な家庭状況のことを心配してどうにも動きがとれず、クラスに適応できなくなっていると思われた。彼女は最後に自分の世界を箱庭に表現することによって安定を得たので、私の考えが裏づけら得たと思った。
彼女は明らかに配慮型日本人で、家族のことを思い、自分のことが考えられなくなっていた。箱庭を作り続けるうちに内的なイメージが自分を中心にしたものに変わり、最後には自分の世界を作った。それによって彼女は安定したのである。
私が会ったある年配の女性は家を1軒置いてそれ以上作れませんと言われた。家を置いたら家の中のいろんなことが思い浮かんで何をどのように置いてよいかわからないというのである。もし、自分を表現するとしたらイスを一つ置いてそれに座って本を読んでいる情景であるという。理想は自分一人の世界である。
自分一人になって自分の世界に浸りたい、それが幸せである、そいう女性が今とても多くなっているのではなかろうか。
一昔前、有吉佐和子さんは小説『紀ノ川』で家のために生きる女性を書いた。しかし、それは家のために生きる女性の最後のイメージでもあったのではないか。小説のなかで家中心の伝統は白蛇と共に家から出て行ってしまった。有吉佐和子さんは配慮型女性の最後を見届けた人である。そして、最後に自分を中心に生きる女性を書いた。その小説の題名は『悪女』である。配慮型人間から考えると自分中心の生き方をする女性は悪女なのあだ。しかし、その頃から女性は自立して、自分の世界を持つようになり、今はそれが善女になってきた。
どんな男の自由にもならない女性、それは遊女であった。遊女を自立的な女性というかどうか意見が分かれるだろうが、どんな男性にも対等に自分を保ちう得る可能性を有している女性としては一つの典型といえるのではなかろうか。
この遊女が『華厳経』の中の善財童子のところに出てくる。善財童子は53人の人に会い教えを受ける。25番目の尼僧は次に遊女に会えという。遊女に会ってみると、彼女はすばらしい知恵と教養を持ち、光り輝く受容的な女性であった。彼女に会い、関係を持った人はすべて満たされ、煩悩から解放されると書かれている。
この思想は奈良東大寺の大仏の背景にある華厳経の一部になっているのである。
今、現実にこのような知性と教養を豊に持ち、人々を癒す力のある自立的な女性たちが出てきているのではないかと思う。