最近、K先生に会った。河合隼雄先生にこだわっている私に先生は「コリントの信徒への手紙一 第15章」を示唆された。そこには復活のことが書いてあると。早速、コリントの信徒への手紙一 第15章を読んだ。そこには「一粒の麦も死なずば・・・」という有名な文句がある。そこを日本聖書教会新共同訳で見ると、「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」となっている。現在のこの共同訳の口語体では説得力があるが、何とも締まらない感じがする。私は古い日本人に属するのであろう。以下新共同訳によって述べる。
そこには先ず「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった」と書いてあった。私はこれまで、われわれ人間は死んだら復活することがないのに何故キリストは復活したのかと考えていた。私が考えていたのとはまったく反対であった。死者が復活しなければ、キリストも復活しなかったというのである。
死者の復活は私たちの心理臨床ではどのようにおこるのかを考えてみると、死者は人の夢の中に復活する。あるいは幻、ビジョンのなかに復活する。それはめずらしいことではない。父や母、親友が死ぬとしばらくして夢のなかに現れる。私はそのときあなたの夢に亡くなられた方が現われたので「その方はあの世に行かれましたね」ということにしている。亡くなった人の夢への登場は、夢見る人の心の中での復活である。
「死者はどんなふうに復活するのか、と聞くものがいるかもしれません。愚かな人だ。」と聖書にはある。私は確かに愚かであった。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの穀粒です。神は、御心のままに、その体を与え、一つ一つの種にそれぞれに体をお与えになります。・・・また、天上の体と地上の体があります。天上の体の輝きと地上の体の輝きは違っています。・・・死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです。自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の命の体があるわけです。」
自然の体は死んで、霊の体が心の中に復活するとパウロは言っているのである。それは先に述べたように私たちの心理臨床でよく経験することである。霊の体に出会うこと、それが信仰ではないか。私は心の中で死んだ人を思い起こす。河合隼雄先生も亡くなられ、私たち一人一人の中に生きておられる。河合隼雄先生は思い出のなかに生きておられるが、先生は私たちに何を一体教えられたのか、私はそれをはっきりさせたい。河合隼雄先生はこうおっしゃったと。河合隼雄先生に深くつながりを持っていた人々はつねにそういう思いをしているのではなかろうか。河合隼雄先生は先生を尊敬する人の中に復活しておられる。そしてある人は夢の中で、まるで生きているときのように先生と身近に接し、生きた言葉を交わすに違いない。そして先生は確かに生きておられたと信じるに違いない。