ユング心理学と河合心理学

このエッセイは金剛出版社の雑誌『臨床心理学』Vol.8No.1特集河合隼雄-その存在と足跡2008.1 P8-13 に掲載されたものです。金剛出版社の許可を得てこのブログに掲載します。

 

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ユング心理学と河合心理学

Jung Psychology And Kawai Psychology

 

 

 

檀渓心理相談室 西村洲衞男

 

Counseling Room Danke   Sueo Nishimura

 

1 はじめに

 昭和40年春、河合先生がチューリッヒからお帰りになり、私たちは初めてユング心理学を知ることになった。当時、私たち心理学領域の者は、ロジャーズの来談者中心療法を重視し、折衷派をあまり評価していなかった。精神分析があることは知っていたけれど、それは遠い東京のことであった。ロジャーズは診断をしないということだったから、ロールシャッハ・テストは一応本で勉強したものの、カウンセリングに関係してくるとは思いもしなかった。その年だったと思うが、学会で描画法が話題になり、河合先生は診断と治療という点から話をされ、みんな新しい世界に目を開かれた感じがした。衝撃的な経験であった。

 河合先生の指導によって京都市カウンセリング・センターで本格的に始められた箱庭療法を東京家政大学で開かれた日本臨床心理学会大会第2回大会で発表すると、会場の講堂は超満員になった。私たちは河合先生に導かれ、事例を持っていったのだが、その反響の大きさにびっくりした。河合先生のご活躍はこのように最初から衝撃的なものであった。

 河合先生の衝撃は日本だけでなくアメリカでも起こっていたことが後でわかった。

チューリッヒのユング研究所に留学される前、河合先生はロサンゼルスでクロッパー,B先生に勧められシュピーゲルマン,M先生に分析をうけられた。そのシュピーゲルマン先生が来日され、京都で講演されたとき、自分の夢を紹介された。その夢は“西から太陽が昇る”というものだった。西から太陽が昇るなんて変だと思っていたら、河合がやって来たとおっしゃった。シュピーゲルマン先生も随分びっくりされたのだと思う。そして広い会場いっぱいに河合先生のファンが詰め掛けている様子を見て、河合先生が太陽のような存在であることを確認されたのだと思う。この話は私にとっても衝撃的であった。

 先生のご逝去も私たちにとって衝撃であった。お別れに1年間の猶予を心の準備期間として与えてくださったのは、配慮的な先生の気配りであったと思う。無意識の共時性の心的作用とはこんなものだろうか。

 先生の心理臨床学会大会のワークショップは例年参加者が多く、申し込んでも入れないことがあった。久しぶりに出て、入りが少ないなと思ったら次の年はワークショップにお名前がなかった。先生は機を見るに敏なる人であった。

 すでに40年以上も学会の第一線で活躍され、流行の早いこの学会では認知行動療法というイメージとあまりかかわらない心理療法がはやり始めていた。その後、箱庭療法学会では先生の前で、「僕は箱庭療法を辞めます」と宣言する人も現れた。私も昨年先生が倒れられた年の心理臨床学会の自主シンポで「河合心理学に学ぶ」と題して会を開いた。こんな催しをするから先生が倒れられたのだという人もあったので、罪悪感があった。しかし、自分としては、「グレートマザー」も「死と再生」も、「影」も「アニマ・アニムス」も消えていく様子を見て、河合先生が教えてくださったものを残さねばならないという気持ちからやったことであった。このように流れから考えると、河合先生のたましいは学会から離れていたのかもしれない。

 先生の最近の研究テーマは宗教に関するもので、その方向へ大きく進路を変えておられたのではないかと思う。最後のお仕事としてはアマテラスと宮沢賢治の研究があったと思う。賢治の童話は銀河鉄道に象徴されるあの世への旅立ちのテーマで、一人旅である。

 昨年沖縄に行った帰り、JALの機内誌SKYWARD2006年8月号を沖縄の金城孝次先生に教えられて見た。そこには先生のインタービュー記事が出ていた。最後に「先生は一人旅をされたことは」の問いに、「今まで一人旅は無い、これからしてみようか」という答えがあった。写真は両手で顔を覆う、疲れたときに見せられるポーズだった。私たちは少し不安になった。その数日後先生は倒れられ、まさに一人旅に出られたのだった。先生があの世はこうだったよといって冗談を聞くのを期待していたが叶わなかった。あの世が余程よかったのだろう。先生を引き止める方が向こうにいられたに違いない。今ではクロッパー先生やマイヤー先生と歓談していらっしゃることだろう。ご冥福を祈る。

 

 

2 『河合隼雄 夢を生きる』そして『アマテラス 河合隼雄を生きる』

 『明恵 夢を生きる』を先生はお書きになった。この本に先生のお考えが凝縮されている。私たちには先生の帰国後のことしかわからないが、先生も夢を生きる人であったと思う。『河合隼雄 夢を生きる』という本ができそうである。

 京都市カウンセリング・センターの朝のケース会議にお出でになる先生が今日も田圃を買う夢を見たと廊下を歩きながらおっしゃった。そのときは何かわからなかったが、帰国して耕すべき田畑を求め、そこに作物を植え育てられるようなことをしてこられたのである。河合先生の田畑は全国に広がり、その田畑はアメリカにも韓国にもそしてヨーロッパにも広がったのではなかろうか。

 京都市カウンセリング・センターはカウンセリングに関心を持つ多くの人のための会を開いていた。昭和45年だったと思うが、そのときは転移・逆転移をテーマにしてシンポジュウムを開いた。講師の先生方が何をおっしゃったか忘れたが、河合先生は、なぜかご自分の夢を話された。その夢は、チューリッヒの分析家、マイヤー、C.A.先生が豊橋にやって来たというものであった。このように「私は分析家と親密な関係にあるが、何故豊橋なのかわからない」とおっしゃった。この夢から、河合先生は分析家から未だ独立していないと見る人もあるかもしれないが、私はこの夢が現実となって広がって行くのを感じ、驚きを禁じえなかった。あるときこの夢について書いてもよろしいかと許しを求めたところ、それは止してくれということだった。この夢が明らかになると先生の秘密が露呈し、今進行しているものが止まるかもしれないと私も判断した。

 マイヤー先生と河合先生は親友のように互いに率直に話し合うことができる関係であった。その先生が豊橋に来ている。その後の先生の活動はいろいろな領域の人と率直に話し合われ、多方面に沢山の心の橋を架けて関係を広められた。そのために臨床心理学は日本に広く広がることなった。まさにマイヤーのしっかりした判断力のある精神が豊かな橋となって実現したのである。河合先生が心理学以外の領域の方々と関係を広げられたことは誰もが認めることである。帰国したときの夢によってそれが導かれたというこの不思議によって、人生は自分の内部から生じて来る深いイメージによって支えられているという被分析経験からえた確信はいっそう強められた。

 私は先生がまだ公にしてはいけないという先生の個人的な夢をここに公開した。秘密を破ったわけだが、私も古希を超えたのでいつあの世へ旅立つかわからない。そして、多分この夢は、あのシンポジュウムで話をされただけで、私だけしか記憶していないのではないかと思って、あえて記しておく次第である。

 ロサンゼルスのシュピーゲルマン先生のところでの初回夢は聞いていないが、マイヤー先生のところでの初回夢は、話してくださった。これもどこかに書いてあるかも知れないが、その夢は“燃える城(Feuer Schloss)”であった。その夢を報告すると、マイヤー先生は奥の書斎に行って、持って来た巻物を広げ、しばらくものもいわず見ておられたという。その掛け軸には燃える城の絵が描かれていたのである。よくそんなものがチューリッヒのマイヤー先生の手元にあったものだと、河合先生も感心したといっておられた。

 あるとき私は、河合先生はこの燃える城の城主になられたと思った。先生は日本心理臨床学会の城主であるばかりでなく、日本臨床心理士会の会長、ついには文化庁長官になられ、日本文化の代表として世界の人びとと交流を深められた。高く聳える城と、燃えるような情熱と、そして豊な橋のイメージを先生は生きられたのだと思う。まさに、『河合隼雄、夢を生きる』といってよいと思う。先生の人生はまさに走る火の玉のようであった。

 河合先生の側にいるだけでホッとするような、暖かい雰囲気に包まれる経験をした人は多かったと思う。先生は尽きることのない暖かい気配りの方であった。その暖かさはどこから来ているのだろう。

 これも先生の夢の関連で見ると、先ずはシュピーゲルマン先生の「西から登る太陽」、次に「燃える城の火」、そしてユング研究所での最後の方の夢「輝ける太陽の女神」「太陽の女神に関する論文」である。「ものすごく輝く女性を(夢で)見て、ああ、アマテラスやと思ったらドクター、フレーだった。・・これで女性への抵抗が完全に解消したと思って、ドクター、フレーに話すと、私は女神でもなんでもない、ただの人間です。アマテラスはあなた心のなかにあるもので、心のなかにあるそれを大切にしなさい、と言われた。」

 先生のなかにはアマテラスがいて、それが人びとの心を照らし、暖めていたのではなかろうか。先生の心はヤコービさんが下さった赤いバラの花にも象徴されるが、フレーさんのなかに見た輝く太陽、輝く女神で、それが人びとに生きる希望の光を与えていたのである。この火のプロセスを見ると、「河合隼雄 夢を生きる」というよりも、太陽の女神、アマテラスが河合隼雄を生き、人々に光と愛を与えたということができよう。

 

 

3 フロイトとユングの心理学

 フロイトはヒステリーの研究から精神世界に入って、意識、無意識、自我防衛、転移、逆転移、リビドー、心の構造論や精神の発達理論などを構築して行った。

ユングはフロイトを師と仰ぎ、フロイトの考えに与した。自伝から明らかなように、幼少時から奇妙な夢やビジョンを多く見ていて、精神病レベルの経験が多くあった。精神科医として精神病院において統合失調症を多く見ていたので、フロイトの精神分析では収まりがつかなかった。彼の心理学はヒステリーや恐怖症など神経症圏の心理学を超え、精神病的な世界に広がっていった。

 ユングはフロイトが考える無意識を個人的な無意識と考え、それを超えたところに普遍的な無意識を仮定し、その無意識の構成要素として、様々な元型を考えた。リビドーの考えも現代物理学のエネルギー理論を視野に入れて心的エネルギーとした。意識と無意識をつなぐイメージの機能として超越機能を考え、イメージの自己修復的な機能を考えた。フロイトがエディプス神話にこだわったのに対して、世界中の宗教や神話を視野に入れ、そこに元型を見出し、心の基礎をそこに置いた。そしてヨーロッパ人の心の背後にあるキリスト教と、キリスト教に排除された錬金術やおとぎ話の世界を探求し、それらの世界に心の現象の研究の豊かな成果を見出したのであった。

 

 

4 河合先生のユング心理学の紹介

 チューリッヒのユング研究所にいるときアメリカの友人と『分析心理学に関する二つのエッセイ』を3回読んだといわれた。この本は、現在、『無意識の心理』(C.G.ユング著、高橋義孝訳)、『自我と無意識の関係』(C.G.ユング著、野田倬訳)と題して人文書院から刊行されている。『ユング心理学入門』(培風館)の構成はそれらと良く似ていることがわかる。しかし、その内容はまったく河合先生流に消化され違和感がない。ユングが挙げた事例を引用してあるけれども、要領よくまとめられわかりやすくなっている。先生は話の筋を要領よくまとめる天才であった。

 私たちは河合先生がユング著作集の翻訳を監修されると期待したが、先生は監修さえされなかった。翻訳は『ユング自伝』(みすず書房)『人間と象徴』(河出書房)『自然現象と心の構造』(海鳴社)の三つで初期に限られる。従って、翻訳はばらばらに出ることになった。いつかまとまった翻訳が出るかもわからないが、フロイト著作集ほど愛読されるかどうかは疑問である。

 先生は翻訳の代わりに、私たちが読んでおかねばならない大事な著作を、読みやすい形にして与えてくださった。親鳥が餌を咀嚼して雛鳥に与えるように、先生は難しい内容を先ず自分がわかるように理解して、わかりやすくして与えてくださった。

 私は二つのことを思い出した。箱庭療法のセミナーでカルフさんの講義を私たちは面白いと思って聞いていたが、それは河合先生がカルフさんの話を聞いて理解したことを通訳として話していらっしゃったからである。先生からそう聞いてなるほどと思った。

もう一つは、先生はある子どもの事例について話をしていらっしゃる壇上で突然声を詰まらせ、涙を流された。(先生は泣き虫であった。倒れられたとき『家庭画報』に「泣き虫ハーちゃん」を連載しておられた)先生は壇上から降りてきて、“実は(子どもが母親に大事にされる話をしているとき)僕はマイヤー先生にしてもらったことを思い出した。母親が子供に食べ物を口に含ませるように、丁度良いときに必要なものを与えてもらったことを思い出したんだ。それで急に泣けてきた”と。先生の事例へのコメントはいつもこのように先生の深い内的な体験と照合されて出てきていたので、私たちも先生のコメントを気持ちよく受け入れることができたのではなかろうか。

 チューリッヒで資格を取り、帰国するに当たって、ユング心理学を学んだ自分が如何に日本に適応するか相当に考えられたことが『未来への記憶』に書いてある。

 ユング心理学はこうですと紹介したとしても意味はないと考えられた。そして私たちには、私たちにわかる言葉で話をされた。だから、最初に薦められた本はスタニスラフスキーの『俳優修行』(未來社)であったと記憶する。この本でまず共感する手立てを学んだし、ロジャーズにはない沈黙の意味を考えさせられた。神話や昔話を沢山読み、ユングを読むための基礎が次第にできていったことが今わかる。先生の導きはそういうふうであった。

 

 

5 河合心理学

 フォン・フランツさんが河合先生にユング研究所で無意識、無意識というので困っていないかと聞いたので、自分は佛教などで無意識は昔から知っているので問題はない、むしろユング研究所の意識で困っていると答えられている。ここを『未来への記憶』で読んでいるとまったく冗談話に取れる。けれども、この点は河合心理学の中心的な課題で、見過ごしてはならないところである。

 河合心理学といえば誰もが肉の渦の夢を思い出す。先生は不登校の生徒の事例を通してユング心理学を紹介された感じがある。そこでグレートマザーを紹介され、グレートマザーに飲み込まれた弱く頼りない自我を考えておられた。一方、日本の代表的な神経症、対人恐怖に関する論文では、西洋的な自我と日本的な自我を対比させ、グレートマザーと対決し、自立に苦しむ自我として対人恐怖を位置づけられた。このような自我論は他のいろいろなところで論じられているが、あまり注目されているとは思えない。これは海外に出て西欧人と議論を戦わせたことのない者には縁のないことかもしれない。しかし、西欧文化と交流していく現在の日本文化を考える際には考えねばならないところである。現代の日本人は自我があるようであるが、一皮剥けば平安時代と変わりないというのが河合先生の意見である。何をいわれているかと思ったが、芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだとき自我は消滅している。先生はわれわれがこの自我消滅のレベルで生きていることを強く感じられていたのだろうと思う。

 そこで疑問が湧く。先生はグレートマザーについても人々がグレートという言葉につられて、支配的な強い母親をグレートマザーと呼んでいることに何も意見を出されなかった。私は明らかに誤解があると思ったが。なぜならグレートマザーの布置に入っていると自我は弱まり、自分の意見のない母親になっているはずだから。先生は重ねて述べられることはなかった。自分でわからないものは仕方がない、また、自分のことは自分でやれという主義であった。

 先生のなかには太陽の女神の心があって、人びとに暖かい光をとどけるというお仕事があって、とても人々の誤解を解くようなお暇はなかった。毎日、朝の祈りのように原稿を書いていられた。時には新幹線のなかでも原稿を書かれた。それらは心温まる読み物となって人びとの心の奥にとどいた。

 その他にいわゆる専門書がある。ユングが錬金術の本を紐解いて、ヨーロッパ人の心の深層を研究したように、河合先生は昔話や日本神話、明恵の夢記、源氏物語、とりかえばや物語などを取り上げ、それらの日本の古典を考察することによって日本人の心を研究し、ご自分の考えを深められた。それらの本のなかには河合先生ご自身の夢とおぼしきものが書いてあって、どの本もご自身の心の深層の探求となっている。先に『河合 隼雄夢を生きる』と書いたが、本格的な心理学の研究書がまさにご自身の深層心理の研究書になっていると思う。こんな例は珍しい。ユングは自伝に自分の深層を出しているけれど、研究書には少ないのではないか。河合心理学は、ユング心理学と同様に、夢レベルの深層の、個人的経験の上に出来上がっているのである。

 先生の学問の基礎は数学にある。思考パターンが極めて数学的である。ヤコービさんがいうように河合先生には深い感情機能がある。けれども思考はきわめて理知的で、よく二律背反が出てくる。例えば、母の立場と娘の立場が対立したとき、それぞれの立場に立って考えを深めることができる変わり身の早さがある。これも演劇に関心を持っておられたことと関係があると思う。しかも、その両者の対立矛盾を抱えながら悩みぬく力がある。それは数学的思考法に似ていると思う。数学者はわからない問題を心に抱えて悩み続けるのだから。その二律背反の対立のテーマは研究所最後の資格試験にも出てきた。資格は要る・要らない、与える・与えないという問題である。この問題で研究所全体が揺さぶられ、「みんなが死に物狂いで好きなことをやっていたらうまくいった」と先生はいう。この経験がその後の先生の支えになっていた。資格試験終了後に「これをアレンジしたのは誰か」とマイヤー先生は問われた。それに対する河合先生の答えは不明だが、上田閑照先生から「答えは問処にあり」という禅の言葉を教えられ、納得された。その言葉は明恵の「あるべきようは」に通じている。なんという不思議な縁であろう。このような一連の不思議な出来事の連なりも共時性である。河合先生はいつも深層の共時性の現象のレベルで生きるように心がけておられたのではなかろうか。河合心理学の核心はこの「あるべきようは」の一言に要約される。

 

 

参考文献

河合隼雄著 『自我・恥・恐怖-対人恐怖の世界から-』 思想 No.611 岩波書店1975 (『河合隼雄著作集3・心理療法』1994所収)

河合隼雄著 『明恵 夢を生きる』 法蔵館 1987

河合隼雄著 『未来への記憶』 岩波書店 2001

 

 

 

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