瞑想面接法

 『現代 箱庭療法』は大住誠が実践した瞑想面接法に織田が理論的な枠づけを行ったものである。

 しかし、その内容はそれぞれの個人的な問題が背後にあって誰もがそのまま受け入れることはできないものである。組み立てられた理論にも、また、事例報告の中にも個人的な体験が多く入っていて、その個人的な体験を推測し斟酌しながら読む必要がある。

フロイトやユングの理論も個人的な体験に彩られていることを考慮しないと、理解し受け入れることが困難であることは多くの人が知っていることである。

 フロイトは性欲に関心が高かったらしく、性にあまりに重きを置きすぎたので、リビドーという生きるエネルギーを性的エネルギーと考えてしまった。ユングは連想実験法の研究まではかなり客観的な研究法を取っていた。ところが『変容の象徴』において、女流詩人の詩と紀行文に表れる象徴的な表現を神話や宗教の象徴を駆使して相当に広汎な分析を行った。この本は神話や宗教の知識をふんだんに用いて行った連想から連想に発展するもので、イメージや象徴ついてについて学ぶには良い本であるが、まとまりが無い。まとまりが無いほど広汎な視野の拡大が行われている。個人的な体験から普遍的な象徴の世界に連想は広がり、イメージの世界に入り込みすぎてユングはバランスを失い、一時は精神病的な状態になったといわれている。そこから立ち直るためにユングは『心理学的類型』をまとめた。その心理学的類型の研究では完全数4を基礎とした心理学理論を作り上げた。4は東西南北、上下左右など世界全体を現す数として古来多くの民族の神話や宗教において用いられてきた。象徴4はこのように意味深いものであるが、ユング心理学を信じ込む人は、象徴4にこだわり、ドラ・カルフのような後継者はマンダラを評価しすぎて、箱庭表現の現実が見えにくくなった。カルフといえば、母子一体性の守られた関係ということが述べられるけれど、母子一体の関係など、治療者が母親でクライエントが子どもであるとすれば、これほど息苦しいものはないはずである。箱庭療法による心理療法では、母子一体が基礎であるから、母親からの自立など考えられないではないか。そういうことを疑いも無く信じていくのが普通の人である。

 これらは指導者の個人的な人格の問題が、心理学という普遍的なことに入ってきた問題である。これらの問題に気づくことは偉い人の理論を傷つけることになり、その問題をあからさまに言うことはできないから、その部分だけ排除することはとても難しい。心理学の理論や事例は個人的な問題を含んだまましか出てこない。私たちは個人的なものも混じった中から自分に役に立つものを拾い上げなければならない。そのためには大きな仕事をされた先達に対して辛らつな批判を加えなければならない。そうでなければ先達が掘り出したものの中から光るものを見出すことはできない。辛らつな批判を行いながら大きな仕事をされた先達に尊敬の念を持つべきである。

 織田尚夫・大住誠共著の『現代 箱庭療法』も当然両者の問題を差し引いて読まねばならない。

 筆者が感じた織田論文の問題点は、ほとんど心理臨床の実際における想像活動のニュアンスが感じ取れないところである。スーパーバイジー大住の事例報告に基づいて理論を構築しようとしているだけである。自身の経験が乏しいので理論的な発想に広がりが無い。スーパーバイザーがスーパーバイジーのために作り出した理論ということだろう。また、想像内容のネガティブな面も不可欠と強調するところに織田の青年期までのネガティブな経験がまだ大きく残っていて教育分析でも処理されていないことが感じられた。

 織田の論文で良いところは、ドラ・カルフについてかなり詳しい履歴が書かれているところである。

 但し、カルフをかなり神格化して書いているけれども、カルフが事例を日本に持ってきて行った象徴解釈は、一つ一つのアイテムについて行われ、全体的な把握という観点から見るとかなり低いレベルのものであった。カルフは日本までやってきて河合隼雄先生にスーパービジョンを受けていたと見るのが適当ではないかと思う。

 大住の事例報告は、著者の治療者としてのいのちをかけた仕事であるので読み応えがある。ただし、大住の面接中の想像内容は相当に個人的なもので、こういうものが面接中に出てくるということは、これまで受けた個人分析(教育分析)が不十分であったことを反映している。大住はこれらの事例を担当し、自らも内面を掘り下げることによって、個人分析を深め、厳しいしつけによる心的外傷経験から自由になったと考えられる。

 治療者もこのようにクライエントとの面接を契機として自分の内面を深く見ながら個人的な成長を果たしていくのである。大住はこの問題を個人的な想像内容を示しながら提示しているので本当に頭が下がる。この大住の成長の姿勢、自分の内面にまともに向き合い考えていく生き方が、クライエントにとって役にたつのではなかろうか。

 たとえ教育分析が行われていなくても、大住のようにまともに自分に向き合えば、クライエントも自分に向き合うようになる。心理療法ではそれぞれが相手の話を聞きながら自分の内面に向き合えばよいのである。連想や想像の内容が一致するとか、ネガティブな面を掘り下げなければならないという決まりは無いのではないかと思った。

 

 そういうことから、私は想像的面接法でなく、自分の内面を深く見るということで、大住の面接法を瞑想面接法と考えることが良いのではないかと思った。

<次へ                                   前へ>