精神分析でもユング心理学でも、自我は男性的な原理で考えられていた。
その背後には太陽神話があった。
太陽は夕日となって沈み夜の闇に飲み込まれ朝日となって誕生する。この間太陽は闇の中で怪物と戦い、怪物を倒して再生すると考えられていた。朝日となって生まれでた太陽は上昇し陽の光を増して中天に至り、光を弱めながら沈んでいく。この過程は人が生まれて活動し輝いて人生を終わっていく道程を象徴している。このような過程を通る自我のイメージは男性的と考えられてきた。また、夜の闇の中で怪物と戦って再生してくる自我も男性的である。
エディプス・コンプレックスに象徴されるように、父親殺しが自我の成長に必要だと精神分析では考えられてきた。ユング心理学では父親殺しに加え、母親殺しグレートマザーとの戦いが加えられ、理論上は父親殺しよりも母親、グレートマザー殺しが大切と日本では考えられているのではなかろうか。
このように戦って成長する自我は男性的である。これまでの歴史を振り返ると世界は戦いの連続であった。未だ、アラブ地域やアフリカでは戦争が耐えないが、欧米諸国は軍備は持っているけれども基本的には戦いの時代は終わったのではなかろうか。
欧米諸国では女性の地位が向上し政治面でも女性がリーダーとなる可能性が高くなった。女性が強くなってリードする時代の自我は、男性の自我を支えた太陽神話では説明しきれないのではないか。
昨年行われたアメリカ大統領選挙で民主党のクリントン夫人はオバマ氏と最後の最後まで戦って中々負けを認めなかった。最後にはクリントン氏を支持した人々は民主党支持でありながらオバマ氏を支持しないのではないかとさえ心配するはめになった。こういう戦いを見ると女性の戦いは執念深くとことんやるが血を見ないで終わるのではないか。男の戦いをクリントン夫人のように進めると殺し合いに至り、相手を抹殺することになるのではなかろうか。ついには怪物退治になる。クリントン氏はあくまで女性的に戦い時間切れで終わった。女性が戦う場合、双方が各々言いたいことを主張して感情を出し切ったところで終わる。そこには勝ち負けは無い。感情的な興奮の低下で終わる。そこには殺し合いはなく、みんながそのまま残っている。それを支えるものは愛である。
これからの時代はみんなが和気藹々と生きていくことができるそういう自我が必要である。戦いの原理は背後に退き、和の原理が重要になる。個性尊重の自我でなく、それぞれが自分の能力を生かし、共に生きていく共生的自我が必要ではなかろうか。個性といっても結局はどんぐりの背比べである。マスコミのためにはヒーロー、一番になる人が必要だが、一番以外はみんなどんぐりになる時代ではなかろうか。英雄的な自我ではなく、和の自我である。どんぐりで小粒だがしっかりしている。