鶴見俊輔氏は河合隼雄先生の追悼式で、河合先生には存在のすべてを嘘と考える精神の自由さがあった、そこから自由な発想が生まれたという意味のことを述べられた。実際河合隼雄先生はすべての現象を夢と同じように扱っておられたように思う。
私たちが実際に見る夢は一見全く意味不明である。フロイト先生が夢は暗号文であり、真実は夢の裏に隠されていると述べたこともうなずける。
真実は夢の裏に隠されていると考えるように夢と真実はしっかりと結びついている。むしろ真実は夢のお告げとして語られる。親鸞上人は、祈りの中で夢を通じて、僧侶としての結婚問題に解決を与えられた。夢の中で救世菩薩に生きる方向を与えられたのであった。その夢のお告げは浄土真宗という新しい一派を興すほどの強い衝撃を親鸞に与え、心をしっかりと基礎づけたのである。
明恵上人は夢を考慮しながら生きることによって「あるべきようわ」という精神的な支えを見出し、「あるべきようわ」というその生き方はいまも私たち日本人の生き方になっている。イギリス育ちの白洲次郎氏に「プリンシプルのない日本人」と非難されながらも私たちが生きていられるのはそのためだろう。
夢のなかにこそ真実があるとい考えから夢を研究することに河合先生は専念された。現実の人生もすべて夢である。人は夢は儚いと考えるが、夢の底流に真実が流れている。現実の出来事の底流に人生の真実があると河合隼雄先生は考えられたのであろう。
私たちの夢のシリーズを概観してみると、夢の意味がさっぱりわからないことが多い。夢の大方は忘れ去られてしまう。記憶に残った夢もわかるところがあまりに少なすぎる。報告された夢の中から意味を見つけるのは、テレビで紹介される砂金の採集のようなものである。泥水の中で掬った砂利の中に砂金の粒をみつけるようなものである。
無意識の世界から送られた夢の内容を日常的な論理でつぶさに判断していると意味の脈絡を見つけることは到底できない。だから概観するほかはない。つぶさに見て行くとわからないから混乱してしまうので、わかりそうなところをつなげてみて行く感じになる。
夢は無意識から生じてきたイメージであり、夢分析ではそのイメージを言葉で記述し報告してもらう。しかし、夢を記述したその言葉は現実の論理の枠にはまらない。フロイト的に見れば暗号であり、常識的に見れば嘘である。
見た夢のイメージを言語で書き記し、言語で記述されたものを私たちがイメージとして受け取って、それを象徴詩として読むとき、その中に漠然とではあるが意味が浮かび上がってくる。中井久夫氏は昔象徴は象徴詩を読むとわかるようになると示唆されたことがあるけれども、夢を象徴詩として読むと意味が明らかになることがある。
象徴や象徴詩は芸術の域に達していて普遍的なものであり、多くの人に理解され感動を与える可能性を持っている。それに対して、夢は夢を見た個人的体験としての個人的象徴詩であって、ほとんどの夢は普遍性を持たない。あくまでも個人的なものである。
深く感動的であるけれども個人的な体験と普遍的に多くの人の感動を呼び起こす芸術作品と区別をしたのは茂木健一郎氏の卓見である。茂木健一郎氏は箱庭制作を繰り返し体験したその経験から、自分が制作した箱庭は自分にはそのとき大きな感動を呼び起こしたが、後で見るとその感動が抜け去り、意味もはっきりしないものになっていたという。その経験からそのときその場で意味のある個人的体験と普遍的体験を区別されたのである。
私たちが心理臨床場面で扱う多くの夢は個人的な体験で深い感動を呼ぶ夢もあるが、それでも個人的な範囲を超えていない。夢がわかりにくいのはその普遍性の無さに拠るのではないか。個人的にはそこに夢を見た当座の感動的な経験があり真実が語られているはずである。夢という個人的な象徴詩に含められた真実を夢見た人も夢を聞いた人もわからないだけである。そこには嘘はないのではないか。
長年の被分析経験から、夢の意味はわかりにくいが、夢のプロセスの方が真実に近いという印象を持ち、その印象は私の存在を基礎づけるものになっている。