小説『1Q84』では10歳の少年少女が良く登場する。天吾と青豆が教室で出会ったのは小学4年生二人とも大体10歳である。『空気さなぎ』の主人公の少女がリトル・ピープルに出会ったのも10歳であった。
心の発達から見て小学校4年生、10歳とはどんな時期なのだろうか。
大人と子どもの境目はどこか、どの段階から大人的と見るかを考えると、一つの節目が10歳前後、小学校3,4年生になる。
幼児期は遊びの世界に生きている。心のイメージとものが一体になっている。心とものが一体になっている幼児期には空想と現実の区別がつきにくいことがある。ある人は幼児期にドラえもんになって空を飛べると考え、ベランダから飛んだという。幸い一階から落ちたのでことなきを得たのだった。幼児期にはこのようにイメージと現実が重なっている。
ところが男根期を過ぎ、抽象概念がわかるようになると、心のイメージは現実から離れた空想となって展開する。小学校3,4年生になって空想に開かれた人は多くいるのではなかろうか。あるいは図鑑に引き込まれ、図鑑によって開かれる世界にひたる子どもも少なくない。あるいは、虫や花に心を引き込まれ、それらを手に入れ絵に描き表わす子どもも出てくる。手塚治虫さんや棟方志功さんにその例を見ることができる。
心の世界ができると抽象概念がわかり始める。上下は比較的に早期からわかるが、左右はわかりにくく、鏡文字、左右反対の文字がほとんど消えるのは小学校3,4年生である。このあたりで時間空間が出来上がるのである。それでも右回り左回りと言う表現は大人でもわかりにくいので、時計回りとか反時計回りと言った表現をする。時間という目に見えないものがわかり始める。過去現在未来という時間軸ができて、時間空間の中に自分が位置づけられ始める。
内と外、自分と相手、味方と敵、味方と敵を分けるルールがわかり始める。ルールがわかるのは社会化の第一歩である。
この二分割の世界がわかるためにその前段階で自分がある程度しっかりできている必要がある。それには精神分析的に言えば、男根期の力強い自己主張的な自我ができていなければならない。自分があるから相手がわかり自分の味方、自分の家があるから相手や敵の存在がわかるようになる。自分ということを意識する自我体験がこの時期に起こりやすい。アイデンティティの基礎はここにあると考えられる。
多くの人がこの時期にお化けが怖くなる。神や仏、お化けや幽霊の存在を信じるようになる。箱庭でも宗教的なものがそれらしく置かれるようになる。
天吾と青豆の出会いはこのような心の発達の過程で起こった。
青豆は証人会の娘でみんなに無視されていた。彼女が理科の実験で失敗して揶揄されたとき、隣の班にいた天吾は青豆に声をかけ自分の班に呼んで丁寧に説明してやった。その後青豆は天吾を意識するようになり、掃除の後教室で二人だけになったとき、彼女は天吾に近づいて手を握り締めじっと天吾の目を見つめた。天吾は彼女の瞳の中に透明な深みを見た。彼女は足早に去り、その後二人は出会うことはなかったが、そのことがずっと心の底に残った。
二人の出会いは、相手という存在が互いにわかって、自分が人を助け、自分が人に助けられたという経験が何か永遠のこととして心に植えつけられたのではなかろうか。
このような主題をくりかえるのは村上春樹さんにも何らかの深い経験があってのことではないかと思われる。
精神科医小倉清先生は毎日朝から晩まで診療を行い、土日には各地の研究会に行って疲れることを知らない人である。その小倉先生が雑誌『臨床心理学』のある号に10歳の体験を書いておられた。毎日家に来て穴掘りの仕事をしている人に、毎日そんなことをして面白いのかと聞いたら、やおらその職人さんは穴から出てきて正座し、10歳の先生にも同じように座らせ、面白くなくても毎日同じことをするのが大人ですと諭され、また仕事を始められたという。先生のこの経験は今も生きているように思われる。
天語にも青豆にも、そして私たちにも小学4年生ごろのことが心の深いところに生きて自分を支えているのではなかろうか。こういう深みのある体験が自我体験であると考えている。