最近私の心理面接が中断する傾向がある。まだ問題を残しながら先の予定を決めないで終わっていく。それは私にも責任があり、私が自分の分析を深めなければならないときにきていると思う。私は今こうして思いを書きながら仕事を続けているわけだが、自分の問題に気づくのは中々難しい。そこで、心理面接の効果がない場合やこの先どうしたらよいかわからないことについて考えてみたい。
ずっと昔、ある大学の研究生をしながら心理面接をどこかでしておられた方があった。その方のある事例は数年続いていたが、面接内容に全く変化が無いので不思議に思っていた。変化が無いのにずっと通って来られる。カウンセラーも変化の無いことに気づきまわりの人にどこがおかしいのかと度々スーパービジョンの場に出されるのだけれど、誰もその方の疑問に答えることができなかった。
その研究生の方は裕福な方で、経済的には全く心配のない方であった。その方の社会的地位も経済的な面も全く心配ないことと、心理面接にまったく変化が見えないことに何か関係があるのではないかとうすうす感じ始めた。それはユングの本を読んでからである。恋人の経済的な援助で分析を受けるという青年の申し出を断った事例をユングは書いている。恋人に分析料を払ってもらってもらうとあなたのノイローゼは治らないという理由からである。
この文章を書こうと考えた頃、新聞に「恋人に感謝し治療を続ける」という一文が声の欄に出ていた。この方は精神病院に長い間通院していらっしゃる方で、これまで彼と5年間つき合い、3年半共に住んでいる恋人に支えられ、治療を続けることができて幸せというものであった。恋人と書いてあるので未だ結婚はしていらっしゃらないだろうが、病気を媒介として二人の関係が続いていると考えて良いと思う。これではこの方の病気は治らず、病気のまま結婚に至らず、恋人の関係を続けることになる。これも女性の至福の一形態かと思う。だから、恋人の援助に対して実名で新聞に彼への感謝のメッセージを送らねばならなくなっていると思った。
ある学会で、私は長くうつ状態に苦しむ男性の心理面接についてコメントを求められた。その男性クライエントの悩みは、意欲が湧かず、中々仕事に就くことができないということであった。彼は母子家庭で、母親は家の財産としてアパートがあり、その収入で生活が成り立っていた。彼は母親からお金をもらって、有料の心理面接も続けることができた。このアパートがある限り彼は汗水たらして働く必要がない。心理面接は数年に亘って続いて、あまり変化が見られない。クライエントの抑圧された怒り、カウンセラーの苛立つ気持ちをどうしたらよいかという問題があった。
私はこのように生活面で経済的問題がない場合は、うつになり、意欲が湧かないのを治療するために心理面接に通うことで、働かなくて良いという免罪符ができているので、治るのは難しいとコメントした。担当のカウンセラーはそのようなコメントをもっと早く聞かねばならなかったと言った。
その会場で興味を引いたのは、私のコメントにうなずく人がかなりあったことである。その方たちはどうやら同じようなクライエントを抱えて困っているのではないかと感じた。長く面接に通うクライエントの中に、うつ状態に入ってこうして社会的な適応を回避している人があることを考えなければならない。
このような人は道徳的な面からは責められるかもしれないが、やむを得ずそういう状況に陥ってしまったのだ。偶々親や恋人の援助があって、あまり苦労せずに生活できる。一見幸せな状態であるが、ご本人は苦しいであろう。
働くことが良いという日本の社会ではそのような人は肩身が狭い。気がふさぐ、それがうつである。それは本当のうつ状態ではない。その人は余った時間や余ったお金の使い道がわからないのではないか。この場合、今まで考えたことも無い、新しい自分の道を切り開くためのガイダンスが必要ではなかろうか。
私の中断した事例を考えると、今から自分でひと頑張りしなければならないという課題に直面している。問題の現状はわかり、趣味や仕事や新婚生活があったりして今一応の安定を保っているが、これで十分というわけではない。不満は多々ある。この先どうしたらよいか、前向きの気持ちがもう一つ出てこないという状態である。
この先どうしたらよいかわからない。それが問題である。こう考えたとき浮かんできた言葉は、「見る前に跳べ」という大江健三郎さんの小説の題名である。内容は忘れたが、この言葉は度々私の心の中に浮かんでくる。心理面接を受けることは考えを深め意識を研ぎ澄ますことだが、見る前に跳べというのは意識を弱めろという意味に取れる。考えもなしにすることは今の時代精神には合わないが、私の人生を生きるには考えもなしにということが大切ではないかと考えるがどうだろうか。
一応の安定をえて、少し前向きに生活を始めた人は、より高い安定のために、再び不安の連続の世界に身を投ずることが良いのではないかと思う。それは心理面接を中断し、考えることを止め、目の前のことに専心することではなかろうか。その昔一日の始まりは日没からであった。人生も目覚めるとお先真っ暗である。真っ暗なところから道は始まるのである。意識は後から芽生えた方が苦しまないで済むのではなかろうか。