ご近所の人に「やっこねーちゃん」とか「やすこさん」と呼ばれた二番目の姉が先月亡くなった。
姉たちの言うところによると私の幼いころ忙しい母に代って面倒を見てくれたらしい。私はあまり覚えていない。私が高校を卒業する直前母は亡くなったので、その後は一家の母代りの存在で、大学時代一緒に田んぼや畑で仕事をした思い出が多い。大学卒業後私が家を出た後は父親との二人暮らしで、父親の面倒を最後まで見てくれた。
父親は私たちにとって怒りん坊でしかなかった。ときどき瞑想し、謡を唸っていた父親も姉と二人暮らしになってから、老人の集まりによく出かけるようになり、謡の代わりに舞台で踊りを踊るようになり、おばあさんたちの人気の的になり、我が家は父親のガールフレンドも訪ねてくるところとなった。父親はやさしいおばあさんに看取られてあの世に旅立った。その後一人暮らしの姉の家はご近所の溜まり場となり、姉もご近所の人々にやすこさんと慕われ、病院に行くより、我が家の切り炬燵に入って話をする方が良いという人まで出てきた。老人会にも誘われて出ていくことが多くなった。そいう時代が30年ほど続いたことになる。5年ほど前に腰痛を発症し、入院し、高齢者の施設に入った。
高齢者の施設は、どこもそうだと思われるが、誰も自分のことを話さないから孤独な人々の集合の世界である。人々に囲まれていた生活は一転して孤独な生活になった。施設はバスが1時間に1本の遠いところで、人々は見舞いもままならなかった。姉もまたご近所の人も集まるところがなくてさみしかったと思う。そのさみしさのためか病気になられた方も一人二人ではない。温かいつながりが薄くなると、人々は健康を損なうようだ。一番の健康法は周囲の人々と仲良く楽しく生活することである。
1年ほど前から、姉は早く死にたいと言うようになり、衰え始めた。施設に入る時から腰痛を訴えていた姉は、腰痛の痛みと背中の痛みを区別して訴えることがなかったので気がついたときは肺がんで何もできなかった。幸い私の高校の友人の温かい配慮でホスピスに入ることができた。そこは姉も希望するところだったので私たちも満足し、最近の見事なホスピスのケアで人生の最後を安らかに生きることができた。
通夜とお葬式には生前にお付き合いのあった大勢の方々が郊外の遠い斎場までお越しくださった。その中には50年ぶりにお会いする人々があって本当に懐かしかった。葬儀は姉を慕ってくれた従妹の配慮で、真っ白の花いっぱいの祭壇になっていて、人々は、葬儀はこのようにしたいと思ったようだ。
姉は生涯独身であったが、多くの人々に慕われ幸せであったと思う。そして葬儀に参列した人々に会って私は昔を懐かしんだ。死は人々をつなぐものであり、死を契機に人格が現れると思った。死は人生の終わりであるが、葬儀は人生のまとめであり、その人がどういう人であったかを明らかにしてくれる機会であると思った。そして死んだ人のたましいは参列者のたましいの花に送られて、あの世の花園の一輪の花になるのかもしれないと思った。