子どもたちが自閉症やアスペルガーと診断されると安心されるお母さんがいる。私たち臨床心理士は重い障碍なのにと思うのだが、今、自閉症やアスペルガー障害は脳の問題に起因すると考えられているので、自分たちの責任ではないと安心されるのである。それはわかる気がする。養育者の責任であるとすれば、その責任の重さに親の心はつぶれてしまう。
統合失調症の家族研究が始まってから遺伝説は後退し、統合失調症は何代も、少なくとも3世代はかかって出てくるというような考えに変わってきた。そして今は薬で統合失調症も抑えれる病気であると考えられるようになり、イタリアでは精神病院はなくなり統合失調症もすべて外来治療となったそうである。このような薬物療法の発展があって、親が心の問題の発症に関与しているという考えは少なくなってきた。
しかし、心理相談を行っていると、親に協力もしてほしいと思うことが少なくない。子どもたちの心理面接を始めると、子どもが今までになく甘え始めたり、理解してほしいためにいろいろな問題行動をお越したりする。このような時点で、親は今までできていなかったことに気づかされる。それをうれしいと思う親もあれば苦しくて仕方がないという場合もある。それでも問題の解決に付き合ってもらわねばならない。
前のエッセイに書いたように、昔の和を以て貴しとする生き方の人にも、個人主義の自己主張を考えてもらわねばならないし、現代の自己主張の時代には子どもの言い分をよく聞いてもらいたいのである。
小学校高学年から青年期にかけて子どもの問題が生じたとき、子どもの心に耳を傾けるだけでなく、親は自分自身の生き方を顧み、夫婦関係を見直さなければならない。そこで大いに話し合い、考えを深めなければならない。家庭内の人間関係を改める一大事業の時となる。それが思春期の子どもの問題を発端として起こるのである。子どもの問題の発現は家のことや親たちの生き方を考え直させるために起こってくると考えるのである。
誰が問題の原因をつくったというわけではない。関係者全員、特に子どもを育ててきた親はかかわりが深いから考えてほしいのである。
昔、不登校の子どもが、どうして僕を生んだのだ、何の考えもなしに!と言った。
ここで問題なのは、「何の考えもなしに」ということで、今、考えていないということである。今、考えがなくなっているのだから、親も子もお互いの考えを出して話を続けていくほかないのである。そこに親の責任があるのだと思う。
結婚も、子どもができたことも、その子が不登校になったことも親がかかわっているが責任はない。それは神の計らいでそうなってしまったので、誰の責任でもない。しいて言えば、時代の変化、文化や価値観の変化、そして家の運命のなせる業で、個人ではどうしようもないことである。しかし、そこに問題が出てきたらとしたら、問題を単純に片付けようとせずに、かかわりのあるものが必死に深く考えなければならない。そこに新たな道が開かれ、問題の子どもだけでなく、かかわりのある親たちや祖父母の生き方にも何か有意義なものが出てくると思う。親は何も問題なく生きているのだから責任がないように見える。しかし、子どもの立場からすれば、問題について深く考えるという姿勢を示して、問題を乗り越えるためのモデルを示してほしいのである。そこに親の責任があると思う。学校や社会を批判しても仕方がない。そのような非人格的なものは何も責任を取ってくれないから、自分たちで問題に取り組むほかないのである。その援助のために私たちは職人として働いていると思う。