心の清掃

 10年前の9月11日ニューヨークの高層ビルに飛行機が突っ込むのを見た。たまたまニュースをつけたら1機目がビルに突っ込んで煙が立ち上っているのが映っていた。そこに2機目が突っ込んだのだった。そしてビルは瞬く間に倒壊した。大惨事あった。

 今もこの事件は尾を引いており、攻撃した側は戦争好きのアメリカと非難し、攻撃されたアメリカはテロへの報復を正当化する。報復に報復、やむことがない。お互いの恨みは亡霊となって人々を戦わせているようにも見える。科学の時代に入っても亡霊は生きている。最近福島に行ってきた大臣が横にいた人の体に障って「放射能がうつるぞ」と言った。このうつる放射能は放射能の亡霊である。穢れの亡霊を信じている小学生の心理を思い起こさせるニュースであった。亡霊は現代にも立派に生きている。

 明治維新で日本は西洋化し、科学が入ってきて物事を知性的に見て考えるようになった。科学の導入によって、幽霊を見たなどということは神経病とみなされるようになり、まともな人は幽霊など見ないことになり、それまで信じられていた幽霊は存在できなくなった。それでも私たちの子どもの頃、墓場には火の玉が出る、川には河童が居て引き込まれておぼれると信じられていた。そのようなことが大人の世界においても明治の初め、文明開化の頃まであって、大人も幽霊の存在を子どものように信じていたのだった。

 幽霊体験が神経病にされて、幽霊がこの世から消えていくのを惜しんだ三遊亭圓朝は怪談話、『真景累ヶ淵』を語って、幽霊話を残した。その語りは速記録で書きとめられ公刊され、言文一致の日本語の元になった。『牡丹灯籠』もその一つである。この2冊は岩波文庫に今も出ているので誰でも読むことができる。

 このような幽霊話は日本独特のものではなかろうか。そして幽霊話を非現実的なものと考えるようになって、過去の怨恨も幽霊と共に見ないようになった。その結果、現代の日本人は過去を振り返らないで、未来だけ見る人間になってしまったのではないか。一方、隣の韓国の人々は過去の怨恨をずっと忘れない人々である。過去の怨恨を忘れないでいると幽霊などになって出る必要がないのではないか。ここに日本と韓国の違いがある。

 幽霊は大体女性の亡霊である。男は女の恨みを見ようとしないから幽霊になって出てくるのではなかろうか。恨みを持った男は幽霊になって出ることはないのではないか。

 男の幽霊はどうなっているのか。

 『真景累ヶ淵』の後半は敵討ちの話でそこには幽霊は登場しない。男は敵討ち、復讐劇である。復讐の背後には恨みつらみがある。怨恨である。怨恨を処理するには幽霊となって恨み殺すか、敵討ちしかないのだろうか。

 私たちカウンセラーはこの恨み、そして恨みを抱えた幽霊を扱っている。

 夢分析をするとこれまでの心に引っ掛かるいろいろな出来事が夢に関連して思い出される。昔の恨めしい、あるいは気持ちの悪い出来事をすべて思い出して心の整理をすることが夢分析の作業である。

 分析がある程度進んで昔の苦しかった嫌な思い出がいろいろ出てきたところで、「あなたの心の湖がこれまでのいろいろな経験によって出来たゴミでいっぱいになり、底が見えないほどになっているので、今夢がゴミ掃除をしているのです」と説明する。思い出を語って心の水面が開け、水底の清い流れにふれるようになると心は平安になり、湖で泳ぐ元気が出てくる、つまり、世間という湖に出て生きる元気が出てくるのである。これが私の心理療法の基本的な考え方である。

 水、つまり、心の流れが清らかになり、深層の心の流れに乗るようになると出会いも清らかになり、良い人に巡り合えると確信するようになった。それを支えるのは徹底した深い話し合いしかないと思う。大住誠先生はこれを深い瞑想に徹することによって成し遂げているけれども、私は話し合いの方に依っている。瞑想か話し合いかという違いで、やっていることは心の清掃である。つまりは、浄化法である。

 夢分析を心の浄化に用いるのは無意識の自律的浄化能力が効果的だからである。これを意識の方から行うと自分で苦しい嫌なことを思い出してまとめなくてはならない。それはつらいことである。夢に任せておくと良いタイミングで思い出し心の清掃ができると思う。そうすると幽霊になって化けて出る必要もなく敵討ちもしないで済むようである。

 

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