今日も目が覚めた。新しい一日が始まる。
40代半ばに「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ」というバッハのカンタータの題名が気にかかったことがある。私の心の中でお前の人生を省みて目を覚ませという声があるような気がして愛知教育大学保健管理センターのパンフレットにエッセイを書いたことがあった。
私は今日も目が覚めた。お前はケーブルカーで山に登っていたのだ。登山というのは自分の足で登るもんだという声が聞こえる。
岩波の『図書』の最新号を見ていたらそこに詩人が西脇順三郎の言葉を紹介していた。
「習慣は現実に対する意識力をにぶらせる。伝統のために意識力が冬眠状態に入る。故に現実がつまらなくなるのであろう。習慣を破ることは現実を面白くすることになる。」
私たちはフロイトやユングやロジャーズの考えを大切にしてその伝統を守ることを良しとしてきた。しかし、それは現実をしっかりと見ないことを意味する。
いわゆる心理学領域の学術論文、特に『心理臨床学研究』の事例は面白く参考になるけれど考察は大体読むに堪えない。面白くないのである。大体伝統的な考えからを踏まえて書いてあるので、つまり習慣に従っているから意識が冬眠状態に入っていて、読むほうも眠くなるのである。ある高名な学者が「学術論文を読むと頭が悪くなる」と言ったがその根拠はここにある。学術論文はこれまでの研究を踏まえて論理を展開しなければ審査を通らない。そこでまったく新しいことを書くとこれまでの研究に位置づけられていないとして拒否されるのである。こうして意識力の高い新鮮な意識の考えは、たぶん今では、自費出版でないと世に出ないのではないか。自費出版はお金がかかるからこのエッセイに少し書き残すことにしょう。
私はこれから登山案内書のない山に登る。そこでは新しい意識が目覚める。しかし、山のある地元の人にとっては何も目新しいことのないものであろう。アメリカ人はアメリカを発見したというが、アメリカにもともと住んでいたネイティブにとっては昔からあったのだ。アメリカ人は聖なる土地や岩山を機械で破壊し自分たちの土地にしただけだ。
私のこれからの心理臨床の仕事もそんなものだ。ただ自分の目で見てみて自分の考えをまとめてみたいのである。まとまったら自分の考えという繭くるまれて日が暮れてまた眠ることになるのであろう。そしてまた陽は登る。
伝統的な考えに従って行う心理療法面接は治らなくても一応文句はないけれどそれでは面白くない。もっと生き生きとした心理療法でありたい。
先日、ある新年会に出たら、「先生は最近K先生に対して批判的ですね」と言われた。私のこのような革新的な生き方は周囲の伝統に従って生きる人々にとっては少々恐ろしく感じられるのであろう。でもそれは仕方がない。このような生き方は司馬遼太郎に言わせればきわめて肥後人の個性的な生き方、一人一国の生き方である。これこそユング的である。