この春、私は歳取って先は長くないから教育分析を受けたい人は来てくださいということをここに書いた。何人かお出でいただいたのでうれしい。みんな個性的な方ばかりでそれもうれしかった。これは自分が個性的であることの証しかもしれない。しかし、私の個性というのは単に変わり者という意味かもしれない。
教育分析では生活史を振り返り、さらに夢を記録し報告してもらい、出てきた人物や出来事や行為や考えについて思い出してもらい、過去の経験の検討をする。そこは精神分析も変わらないと思う。
ユング派的には、自分と性格や生き方の違う人の検討、つまり影の分析、自分の生き方、振る舞い方の検討、これはペルソナの分析を行う。そして夢に出てくる異性、アニマ・アニムスの検討を行う。夢に出てくる異性の性格はその人の無意識の行動パターンを反映していることが多い。それは自分を漠然と顧みたときに見えてくるもので、これといった具体的な経験につながることは少ない。とらえどころがないから難しく、ユングは影は弟子の仕事、アニマ・アニムスは師匠の仕事と言った。
影やペルソナは具体的な経験につながっているけれども、アニマ・アニムスはそうではない、漠然と生活全体に関係している。こういう傾向がありますねと言ってそれを意識化できてもそれを変えることは難しい。私はかつて石ころをエプロンのポケットに入れているおばさんの姿を夢で見た。私の人とのかかわりはおばさん的であり、私がしていることは石ころを拾うような意味なことをしているという強烈な警告であった。分析家はこの夢を聞いて、俺の分析でやっていることはそんなことかといぶかったが、私の生活態度全般だと言った。実際分析は私に石ころを拾うおばさんの夢を見させるくらい実際的に役に立っていたのだから。
このような作業を通して分析では過去の経験を思い出して自分の人生を確かめる。それらの経験は自分の土台になっている。どんなに苦しいことであれその経験をしたということは今の自分の土台になっている。ただ引きこもって何もしなくても何もしなかったという経験になるはずである。禅宗のお坊さんはただ座るだけで何もしない、考えもしない、何もしない無が経験になる。それらの経験はすべて自分のこころの土台である。経験を省みて確かめるほど自分のこころの基礎はしっかりしてくる。教育分析とは心の土台作り、自分を経験に基礎づけることである。
夢分析で心を掘り下げ、経験を確かめると今までの経験から自由になる。そこで新たな選択の可能性が開かれ、過去にとらわれない分元気になり、いくぶん自由な発想や選択が可能になる。私たちにとって大切なのはこの元気で自由な心である。
このように見てくると教育分析とは過去からの解放、そして新たな人生の開拓ということになるだろう。