今月姉の三回忌を迎えた。それを機に私たちが生まれ育った家を処分することになった。姉の家にあった2本の箪笥の中から思い出の品が続々と出てきた。中には私の中学の通知表まであって、こんな成績でよくも濟々黌に入れたものだと我ながら驚いた。後で聞くと姉の一人が整理してまとめてくれていたということだった。これらの資料は捨てても良いがアルバムや手作りの綿入れなど捨てるには忍びないものが出てきた。
この状況に直面して、その日のうちに処分の仕方を考えなくてはならなくなったとき、過ぎ去った過去を一切見ないで常に前を見る者と、自分にかかわる過去を見ようとする者の違いが出てきた。
私は明らかに過去の事柄を見たい人である。
私には長男の兄があった。その兄は今の北朝鮮に行っていて、終戦後帰国し、間もなく結核を患い、その頃出始めた抗生物質も間に合わず亡くなった。だから、長男の思い出は私の記憶にはほとんどない。その兄の勉強のノートが箪笥から出てきた。工業高校か専門学校で学んだ時の電気のノートであった。大きな角張った字でびっしりと書かれたものを見て初めて兄の心に接する思いがした。
こういう訳で私は過去をこの際徹底的に見直したくなってできるだけ袋に詰めて持って帰った。これを忙しい生活の中でどれくらい見ることができるかわからないが捨てることはできなかった。
過去とはいわばゴミである。過去のつらい経験というゴミの中から宝を探すことが私たちカウンセラーの仕事である。ゴミは私たちにとって大事なものであると思う。
ところが家に帰ってテレビをつけたら近所の人の迷惑も顧みずゴミを集めゴミ屋敷に住んでいる状況が出ていた。まったくシンクロニシティと言って良い。私はごみ屋敷の仲間の一人である。
しかし、一方で、今回の帰省の暇つぶしに司馬遷の『史記列伝』を持って行った。これは先ごろ上海に初めて行ったので、中国を理解するために読み始めたものだった。この本は春秋戦国時代の中国の多くの国の歴史を動かした人々について書いたものだった。戦の歴史で今の時代から見れば、無駄な戦争を沢山繰り返し、繰り返しやっただけの悲惨な歴史の記録で、ある人から見ればごみである。何万人もの人の首が切られ、籠城して飢えたときには子供を交換して食べたと書いてある。こんな悲惨なことは誰も見たくない。その悲惨な歴史を司馬遷はしっかりとみて、そこから歴史の教訓を得ようとしたのであろう。この本は今の北朝鮮や中国の動きを理解するために読まねばならないと思った。3千年ほど昔の戦いのやり方が今も生きていると思う。過去が現在を動かしているのである。
中国の新しい発展を見守り、日本も競って負けないようにしていけば新しい未来が開けてくる。その新しい未来こそが大切だと過去を振り返らない人は考えるだろう。新しい未来こそが自分を安心させてくれると信じているのではなかろうか。
それに対して私は過去を振り返り、出自を明らかにし、周りにいた人々の人柄に触れることによって自分のこころの土台を確かなものにしようとしていると思う。そこには3千年来変わらぬ人間の戦いの本能が生きているし、助け合いや信義の心も生きている。そいうことを詳しく知ることが私たちの確かな土台になるに違いない。