教育分析の力

ファースト・ケース・ラッキーという言葉がある。初心者が最初に担当する事例は成功するというジンクスである。初心者は最初に担当した事例をとにかく一所懸命に心を込めてやるから成功するのである。2事例目にはその一所懸命さと誠実さがちょっと薄れる。それだけでもう上手くいかない。私の場合も最初の高校生との面接は上手く行った。なぜそうなったかわからなかった。最初の夢分析はすでに河合隼雄先生の分析を受けていたから上手く行って当たり前であろう。次も、その次も上手く行った。これが教育分析の効果であろう。

教育分析、つまり、“自分に向き合うこと”がクライアントを助けることになるのである。“共感と受容が治療的である”という来談者中心療法の考えと全く違うのである。“治療者自身が自分に向き合うこと”が、“クライアントがクライアント自身に向き合うこと”を助けるのである。

河合隼雄先生の分析を受けている間は面接が上手く行った。しかし、分析を一応終わって名古屋市大の精神科に来てからは今までよりはるかに難しい事例を担当したこともあって、上手くやるのは大変だと思った。今から思うとこの時スーパービジョンか教育分析が改めて必要だったのだと思う。

しかし、自分の内面を見ると河合隼雄先生の考えがいっぱい詰まっている。今はこの自分を何とかして自分自身を取り戻さねばならないと思い河合先生の所には近づかず、自分の定めた研究テーマ、女性の人生の研究を続けることにした。

名古屋に来て3年後から私に教育分析を受ける人が出てきた。その人達の仕事は立派で、なんと素晴らしい面接をする人たちだと感心し、自分にはとてもできないと劣等感さえ抱いた。その期間が何年も続き、15年経って教育分析で貯めこんでいたものを使い果たしたと思った。それからは暗中模索の時を過ごした。

50歳を超えた頃半年間のアメリカ留学の機会を得て、河合隼雄先生の最初の分析家スピーゲルマン先生と目幸先生の分析を受けることができた。ここで行ったのは5年間の暗中模索時代の心の整理、そして河合隼雄先生の見直しであった。この過去の見直しをして後、毎年シュピーゲルマン先生のところに通いながら自分の夢と向き合った。そしてついに自分が当面すべき問題に夢見によって気づいた。それはもう60歳に近かったと思う。

それからこの残された自分の問題を克服するために頑張ってきた。シュピーゲルマン先生のところに行ってくると少し解決し、これで行こうというシンボルを得た。60歳半ばであった。大学教員時代はそれで良かった。

70歳になり大学教員を辞め、専業カウンセラーになって仕事をするようになったらやっと自分の夢を自分で解釈できるようになってきた。今年の春サンフランシスコの山の中で座禅をしながら過ごし、時差ボケによる不規則な睡眠も幸いして沢山の夢を見ることができて、自分の経験について省みることができた。また、これから当面する自分の問題を見つけることもできた。

このように自分の内的なプロセスを振り返ってみると、河合隼雄先生の分析やシュピーゲルマン先生の分析が如何に役に立っていたかがわかる。自分を導いいていくイメージをつかむこと、それが今の自分を支えていると思う。

河合隼雄先生が高校の国語の先生のところに行って、「先生の授業はどうして面白いのですか」と聞きに行ったところ、その国語の先生は「いつも自分の課題を研究しているからです」と言われたという。河合隼雄先生はその先生にならって毎朝原稿用紙に向かって考えを深めておられた。「それは毎朝の祈りのようであった」と文化功労賞の挨拶でおっしゃった。ご自身の夢については専門書の中に散りばめて書いてあるが、このように毎朝原稿用紙に向かって自分の内面に向かい合う姿勢が先生ご自身をずっと支え続けていたことは間違いないと思う。マイヤー先生亡き後も先生はずっと自分に向き合う仕事をされていたと思う。

私もこの生き方を見習っていきたい。これが河合派ということではなかろうか。

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