お前の60年は真っ暗だった

 

 今年もサンフランシスコ近郊の山中にある禅センターで2週間の休暇を過ごすことが出来た。

 昨年ここで2週間過ごし、沢山の夢を見て、その夢は私の来し方行く末について示唆するところが多く、大変有意義であった。今年も柳の下ならぬ、禅センターで2匹目のドジョウを狙って行った。

 その結果、昨年より時差ボケがひどく、中々適応できず、睡眠が取れなかったという感じが強い。眠ったという感じがないにもかかわらず昼間元気に過ごしていた。年をとって環境に馴染めなかったのか、もっと目を覚ませということだったのか、わからない。

 私の夢の心の警告は眠って夢を見るのではなく、もっと目を覚まして考えろということだったのかもしれない。最後の夢から考えると後者であろう。

 最後の夢は、暗い中から年配の太った女性が出てきて黒い幕を広げて「お前の60年は真っ暗だった」と叫んだように思えた。この夢は、長い夢を見てそれを書き留めなければと思って考えていて、一瞬考えが途切れ、その時ほとんど瞬間的に私に訴えるように出てきたものだった。

 目覚めて記録し、考えた。私の60年と言えば10歳から70歳、子供時代から定年退職までである。そのうち子供時代の、小学校3年生の終戦のどさくさ、そして4年生のパラチフスに罹って寝込んだ一夏、私はこれで子供時代の友達関係が空白になってしまい、友達言葉を覚えないまま成長してしまった。これは私の人間関係に大きな影響をもたらした。

 この子どもらしさの喪失は、昨年の夢でかなり回復して元気になった。

 私は青年期以後ユング心理学と出会い、河合隼雄先生にも出会ったことは、私の人生を明るくした。それによって定年まで、人も自分も認めるようにユング心理学を基盤にして生きてきた。

 しかし、私の夢はそれも闇だったと言うのである。

 私はユング心理学を借りて生きて来た。それは間違いない。私は河合先生の尻馬に乗って華々しく人前に出る勇気がなかった。そういうことが得意な人がいたし、自分がそうすると生半可にしか理解していないユング心理学で何かを書くことになって、それはとても気恥ずかしいことに感じられ、発表すべき夢分析の事例を持ちながら、論文にまとめることができなかった。文章能力が足りないということもあったけれど。

 ユング心理学は、私にとっては借り物であった。

 今の私は、ユング心理学で「使える定理」とでもいうべきものもあるけれど、元型論などは、自分ではとても信じられないから使えない。

 定年後、相談室専属になって心理臨床に専念し、自分なりのやり方が出来てきて、今は借り物の概念を使いながら、これから先のわからない未来に対して、手探りで進むことができるようになった。わからない次の瞬間に立ち向かうには勇気がいるが、その勇気が道を開いてくれているような感じがしている。今は借り物の道具はあるけれど、自分の意識を頼りに進んでいるので、少しは明るくなっているのではないか。

禅センターからの帰国の旅立ちの2日前に、朝食が終わって会議があるということだったが、みんながシーンとなって、一斉に私の方に向かって注目が集まるという場面があった。私は、友人で禅センター在住のジローさんに「どういうことか?」と聞くと、「お前がここで何を経験したか皆に言え」ということらしい。私は最後のあいさつにと思っていたのだが、とっさに言わねばならなかった。そこで次のようなことを言ってジローさんに通訳してもらった。

 「みなさんはここで坐禅に専心し、心を清らかにして平安を求めていらっしゃるけれども、私は夢を沢山見て、自分がこれからの人生で取り組むべき課題を見つけることに専念しました。その結果、いくつも夢を見て自分の課題を見つけました。悩みを消して清らかにするどころか、自分の心を悩みでいっぱいにして日本に帰ります。今朝の夢は、“私の60年は闇だった”という夢でした。私はこれから自分で夢を見て、自分で考えることをしなければならないのです。その考えるべき悩みが無くなったら多分死にます。」

と言って挨拶を終わった。するとみんなどっと笑い、良い話をしてくれたと喜んでくれた。初めは馴染めなかった人も最後は笑顔で見送ってくれた。

 有意義な休暇になった。このようなチャンスを与えてくれたジローさんに感謝!です。

 

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