私の般若心経のテキストは、金岡秀友校註『般若心経』講談社文庫1973と、紀野一義著『「般若心経」を読む』講談社現代新書1981である。後者は著名な人の言葉や詩の引用が多く一見わかりやすいように見えるが、読後の感想は、著名なスグレ者しか般若心経を理解できないのではないかといことであった。それに比べると、金岡氏の校註は理論的で一見難しいけれども素人の私たちに理論的でわかりやすく、さらに、「般若理趣経」を考えの一助として取り上げてあるので、私たち凡人でもイケると感じさせてくれるところがある。
「般若理趣経」は人間のありのままを肯定したお経であり、河合隼雄先生も中沢新一氏と共にこのお経について語り、本にしたいと考えておられたと、先生の追悼式で中沢氏が語られたのが印象に残っている。この「般若理趣経」は東大寺の大仏を支えるお経でもあると思う。次に、その理趣経の最後にあるという百字偈の金岡訳を紹介しておく。
ぼさつは勝れし智慧をもち
なべて生死の尽きるまで
つねに衆生の利をはかり
たえてねはんにおもむかず
世にあるものもその性も
智慧の度(およ)ばぬものはなし
もののすがたもそのもとは
一切(すべて)のものは皆清浄(きよ)し
欲が世間をととのえて
よく浄らかになすゆえに
有頂天(すぐれしもの)もまた悪も
みなことごとくうちなびく
蓮は泥に咲きいでて
花は汚れに染(けが)されず
すべての欲もまた同じ
そのままにして人を利す
大いなる欲は清浄(きよき)なり
大いなる楽に富み饒(さか)う
三界(このよ)の自由身につきて
堅くゆるがぬ利を得たり
上記の理趣経は人間の欲や感情を含めた全存在を肯定したお経であることがわかる。こういう言葉が奈良の大仏から発せられると思うと多くの人が仰天するのではないか。私も金岡訳の「理趣経」を読んだときはびっくりした。
私たちカウンセラーが面接室で聞く様々な話は秘密にすべきもので、あってはならないように思いがちだが、般若理趣経の教えはすべて清浄だという。すべてがそのまま肯定され、仏の智慧のなかにあるという。
この考えを土台に置くと、私たちの面接態度はかなり自由に広くなるのではなかろうか。
クライアントをありのままに受け入れるというとき、悪や理不尽なことを無理に受け入れなければならないと考えがちだが、すべては仏の智慧の中にあって、「欲は世間をととのえて」くれると考えるとき、私たちの面接態度は広がり、自由になるのではなかろうか。
これは来談者中心療法だと思う人がいるかもしれないが、ロジャースの来談者中心療法とは根本的に異なる。「欲は世間をととのえて」というとき、仏の大いなる知恵が働いていることを考える必要がある。だから仏中心療法と言うべきで、中心は人ではない。ロジャースの考えはあくまで自己一致という自我の側に留まっている。
私たち心理臨床家はフロイトやユングを超えて、日本の文化がはるか昔に取り入れた仏教の考え方に戻っても良いのではなかろうか。