先日、暇があって庭の隅に生えているニラを採って食べようと思って、刈り取り、洗い、枯葉を除き、食べられるようにしつらえた。今はこんな面倒なことをしなくても、スーパーに行けばもっと立派なにきれいなものが安く買えるのだが、自前の物を食べてみようとして面倒なことをした。
台所で細かいニラを洗い、枯れたところを摘んで選り分けているとき、昔の庭仕事を思い出した。畑から沢山のほうれん草を持ってきて、枯葉や折れた葉を捨て、わらで結わえてひと束にして出荷する作業を家族でした。その時の情景が目に浮かび、母親や母親代わりの姉が黙々とほうれん草を束ねていたことを思い出した。昔は自分も家族の一員として黙々とこうした仕事を手伝ったことを思い出した。
黙々と単調な作業をすること、それが私の母親が見せた人生哲学ではなかったかと思う。
父親は、山芋掘りはもうきついからお前やってくれと頼まれた。私は自転車で山芋畑に行って、1メートルくらい掘って山芋を掘り出す。30キロくらい掘り出して自転車に積んでくる。畑は砂地だから掘るのは大して力は要らないが深く掘るのは容易ではない。また、重いカゴを自転車に積んで遠い畑から帰るのも容易ではなかった。
この仕事を続けたので父親は私にコートを買ってくれたが、今思い起こしてみると、コートよりも山芋畑で長芋を掘り起こすチャンスをくれたことが良かったと思う。山芋は掘り方が悪いとすぐに折れてしまうのだ。商品にするには技術がいるのだ。
仏教学者で、今では真如苑を主宰している紀野一義さんは、学徒出陣するとき、お母さんに挨拶に行くと、お母さんがちょっと待ちなさいといって、奥から日本刀を持ってきて黙って眼の前に置いたとどこかに書いていた。このとき紀野一義さんはお母さんから大和魂という人生哲学を与えられたのである。
日本のプロ野球には親子二代輝いた例がほとんどないが、アメリカには親子二代輝く選手がたくさんいる。なぜこの違いが出てくるのか。
日本の野球教育は、野球で有名な高校での厳しい集団教育である。野球学校に入ればチャンスがあるが、たいていはその厳しい集団教育でエネルギーを使い果たしてしまうのではなかろうか。幸いプロまで生き残って良いコーチに恵まれた人だけが伸びていく。良いコーチに恵まれない人は伸びるチャンスがなく、誰にも知られることなく消えていく。
一方、アメリカでは父親が良い教育環境を息子に与えるのではなかろうか。日本の歌舞伎や能の世界のように、親から子に芸が受け継がれていくのである。多分父親は良いコーチを選び、野球を学ぶチャンスを息子に用意するのだと思う。日本のフィギュア・スケートやシンクロナイズド・スイミングの発展は良いコーチを選べるからである。
母親は人生哲学を、父親はチャンスを与える。決してお金ではない。
親のお金をもらって生きるのは遊び人であり、遊び人も遊び人としてのプライドを持つと生きられるだろうが、そこにも良いコーチがいるのではなかろうか。