昨年二人の人が最初の箱庭でツバメの巣を使った。
このツバメの巣は直径15センチ位の、箱庭の玩具にしては少し大きめのぬいぐるみで、アメリカからKさんが送って下さったものである。いつもは箱庭の玩具棚の横にある本棚に飾りのようにして置いてあるので中々使う人がいない。それに手を伸ばして作品の中央に置かれた。明らかに巣立ちのテーマである。
テレビで生きものの番組を見ていると巣立ちの場面は多い。それなのに人の巣立ちは卒業式と同じに扱われていて、学校から巣立っていくという外面的な意味以外にはあまり関心が向けられない。
社会人になるために成人式がある。社会人という大人になるためのイニシエーションの儀式は青年心理学で広く知られているところである。
成人式は、バンジージャンプに象徴されるように、死ぬほどの恐怖に直面して、それでも生きていく覚悟を決める儀式である。この死に直面する儀式は外面的なこともさることながら内面的な意味が大きい。(バンジージャンプはネットで見ると、遊園地の遊びの一つという説明であるが、元来はニューギニアの森に住む部族の成人式の儀式で、若者は自分で森から蔦を取ってきて、一方の端を塔の上に結びつけ、もう一方の端を自分の片足に結びつけて、塔の上から、人々が見ている前で飛び降りるのである。中には恐怖のために空中でバタバタする者があった。昔、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがある。)
もう一つ、心理臨床では分離不安と呼ばれるものがあって、不登校などで問題になる。教室に入るのに親が付いていないと入れない。親離れが出来ておらず、親がそばにいること、物理的に近くにいることが大切である。それに対して、一応物理的には離れているけれども、家を出て他の集団、特に学校の教室のような同年配者の、集団行動が求められる場面で緊張が高まり、それがしばしば、腹痛や頭痛や気分の悪さ、漠然とした不安感となって現れるものがある。
学級のような集団行動場面は大人の社会とは異なる。そこでは一人前の独立性までは求められていないが、幼児の集団行動場面とは異なり、幼児よりは独立的で外部の大人に守られた集団である。大人になる前の、子ども社会である。この子ども社会への出立を巣立ちと考えることが必要であると思う。
二人の人の、箱庭でのツバメの巣の使用で、人の巣立ちについて考える必要を感じた。それが今年最初の考える課題であった。
巣立ちは、親に餌をもらって食べさせてもらう段階から、自分で餌を見つけて食べる段階への移行である。そこには死ぬほどの恐怖への直面はない。親がしているように、巣の外に出て餌を見つけて食べる生活である。親が外に出て近所付き合いをしているように、子どもは親について外へ出て、近所の子どもと遊び、同年齢の子どもたちと遊ぶ楽しみを経験し、その遊びの中で生きる喜びを見つけるようになる。
子どもの自立に当たって、親が選んだものではなく、自分で選んだものに喜びを感じることが大切である。自分が美味しいと思うもの、自分が面白いと思うもの、それを自分で見つけ出す喜び、出会った友達と遊ぶ喜び、その友達との関係を続けていきたいという気持ち、それが生きる力となる。親子関係の外に自分自身で切り開いて生きる喜びを見つけていくのである。そこは子どもたちの社会で、ただ単に群れて遊ぶ社会で、その向こうに大人の社会がある。
親の庇護のもとから友だち関係の中へ出て行く、それが巣立ちではなかろうか。
そうすると巣立ちは、親の庇護のもとに居る幼児期から、友達と遊ぶのが面白い児童期への移行ではないか。家の中で遊ぶよりも外で友達を遊び、生きる力を友だち関係から得ていくようになることだ。これは明らかに成人式と違う。
児童期のストレスは、チックや吃音、外では声が出ない緘黙症など、身体の一部分の緊張として発現する。発熱や腹痛や頭痛は身体の内部の、時には全身症状的症状である。もっと年令の低い幼児になると発熱や嘔吐など、消化器官系の問題も含むひどい身体症状となって、自家中毒と呼ばれるものになる。
このように見ると、成長に従って全身症状から身体の部分的な症状へ、そして発声や運動などへ現れ方が変わってくることがわかる。
このような観点から見ると、腹痛や下痢やアトピーなどの身体症状を持つ人の心理的な問題は巣立ちの不完全さとして見ることができよう。
子どもに感じ考える意識的な自我ができていると、漠然とした不安感として体験されるのではないか。自我がしっかりしていないと、身体が精神に代わって反応するのではないか。
親、特に母親の庇護の下で外へ出る力が十分に育たないまま仲間関係や社会的な関係の中に出て行かねばならなかった人たちは大人になっても巣立ちの問題を引きずっていることがあるのではないか。出勤前に腹痛や下痢、あるいはアトピーで悩んでいる大人も少なくない。
この人達にとっては、成人式的なイニシエーションを通過する前に、家庭の外の世界はどんなところなのか、少しずつ心の目を開いて見ていくことが必要なのではないかと思う。
以上巣立ちについて他人のこととして書いてきたが、私自身特に皮膚疾患的なものを多くもっているので、今まで書いてきたことはそっくりそのまま私自身にも当てはまる。
40代のはじめはひどかった。仕事から帰ってきて風呂にはいると全身真っ赤になるほど蕁麻疹が出た。たまたま、同世代の病院長も同じ症状を抱えていたので面白かった。それは30分もすると治ったので特に医者にかかることはなかったが、今も東京へ出張というだけでアトピー的な症状が一部分に出てくる。身体的な変調によって自分が近く家を離れる予定になっていることにはっきりと気付かされるのである。
以前にも書いたけれど、10歳の時、その年に全国に流行ったパラチフスに罹ってひと夏寝て過ごして児童期と決別し、それから60年暗い時代が続いたと私の夢は告げたが、そのパラチフスさえ、私の巣立ちの不十分さの故に起こったことではないかと思わざるを得ない。私は今もって巣立ちが不十分なのだと思わざるをえない。私が社会の表舞台に出ていく勇気がなかったのは案外この辺にその理由があるのではないかと思う。
そして今私は自分の心の問題を考えながら、自分を説明するためにこの心理学を書いている。ここに書かれていることは今までにない新しい心理学の側面で、私の弱点を説明するための心理学である。何十年か経って後、私の心の問題をとくために書いたこの心理学を見てくれる人があったら幸いである。人間の巣立ちのことなどまだ誰も問題として取り上げていない。発達臨床心理学の重要な項目として取り上げる価値のあることであると思う。
フロイトは自分自身の性の問題を考えるためにリビドーという性的エネルギーを生きる力と考えて精神分析学を作り上げ、ユングは自分の精神病的な側面を克服しようとして、人類の精神史に根ざした普遍的無意識を考える分析心理学を作った。私は今自分の身体的な症状と社会性の弱さを基にして動物行動学的な心理学をつくろうとしていると思う。
これを書きながら、「弱点で勝負する」という河合隼雄先生の言葉を思い出した。