心理療法の基本ー今ここの現実を明らかにすること

私は昨年末に苦しい夢を見て目が覚めた。

「私は沖縄にいて空港に向かった。空港はすごい人だかりだった。まだ出発には時間があると思って沖縄そばを食べた。食べ終わって飛行機にのるためのバスに向かうと、もうバスは出た後だった。時間を間違えたのだ。空港の人に聞くと、もうその飛行機には間に合わないという。後どうしたら良いかと困っていると人が少なくなり、空港関係者は全く見当たらなくなった。仕方がない、那覇のホテルにもう一度帰らなければならない。次の、多分翌日か、その後の便に空席があれば良いが、なければ、何日か滞在しなければならない。那覇に戻るバスはどこだろうか?当惑していた」。

この夢の最後に当惑して苦しい思いで目が覚めた。

昨年11月沖縄でK先生と話をして自分の現状を振り返った。その話によって私の心のなかは空っぽになった。心が空っぽになるくらいすっかり話をすることができたのだった。それはとても感謝してもしきれないくらいありがたいことだけれど、夢は、お前はまだあの世に行く飛行機に乗ることは出来ないと言っている。那覇に帰って時を待てと言っているのである。今ここの真実は何かと夢は問いかけているのである。時を待つとは何か有意義なことをしろということではないか。

何をしたら良いのか?その鍵は「那覇」にあるのではないか。

那覇でK先生に話したことの中で気になるのは、やはり「般若心経」である。般若心経とは、真実こそが人を救うという観自在菩薩の教えである。

般若心経に基づいた心理療法について書く必要があるのではないか?今ここの私の現状を見るとそのことが思い浮かぶ。温かいおもてなしの中でお前はぬくぬくと仕事ができるではないかと夢は言っているように思える。

昨年2月、私は「お前の60年は闇だった」とおばあさんに言われる夢を見た。ユング心理学も河合心理学もそれはみな自分のものではなく、借り物にすぎない、自分の足で歩んでいないではないかということを夢は指し示していた。

私は自分の足で今ここに立っているのか?

自分の足とはなにか?

私は今年の年賀状を終わった10日の午後プレイルームの絨緞に躓いて左足の脹脛を傷めた。多分肉離れである。

左足の損傷が突然見舞った。私は大体左利だから足も勿論左利きで、自分を支える足を傷めたことになる。この傷は、私が自分のよって立つものを作り上げるべきだと薄々感じながら、それを怠ったために起こったことではないか。朝早く起きて自分の考えを書き始めていたら起らずに済んだ事故なのではなかろうか。

自分の置かれている現状をしっかりと見ること、自分の真実に拠って立つことそれが心理療法になることを思い知らされた元旦であった。