このところ何となく元気がなくて落ち着かない。『西遊記』を一気に読んでしまったらこんな状態になってしまった。西遊記があまり面白かったから、読後のうつ状態かも知れない。落胆や喜びで心を使いすぎると後にうつ状態がやってくる。しばらく何も手に付かない。だから、エッセイも長く休んでいる。
こんなになったのは、もう一つわけがある。それはユングもフロイトも捨て、自分なりの心理臨床を持てたことも一つの要因である。自分なりの心理臨床というのは、夢や箱庭から読み取れることに従っていると、次第に心の生活が整ってくるという考え方である。
そのことを、今年は47年前の事例を学会で発表することによって確かめることになった。この事例発表は、元々はクライアントが死んでいくに当たって、夢のシリーズを心理臨床の研究に役立ててほしいという願いを果たすことが第一の目的だったが、はからずも、この事例で経験したことが、私の心理臨床の基礎になっていたことを発表によって確認した。
それはまた私が教育分析を受けて、自分の人生で確認したことでもあった。
夢や箱庭を通して人生をみていると、現実のいろいろな出来事よりも、夢や箱庭の方が真実を語っているという確信である。最初に作った箱庭のイメージは生活の中に生きて私を支えている。それは河合隼雄先生でも同じだと感じていた。先生の最初の箱庭はずっと先生の生活の中に生きていたので、今も笑えてくる。あの世の先生も同感してくださるだろうと思う。先生の箱庭は私に見せただけで直ぐに取り壊されたから、私しか知らないが、夢の方はみなさんもご存知のはずである。「燃える城」の夢、「マイヤー先生が豊橋にやってきた」夢。先生はまさに燃える城のような人であった。豊橋の夢については、何で豊橋なんやろうと訝っておられたが、先生は沢山の領域の人々に心の橋を架けられ、まさに豊橋の人であった。
夢や箱庭はその人の真実に関わっているので、現実のこともさることながら、夢や箱庭を日々の相談で大切にしたいのである。
クライアントが箱庭を作り夢を報告し、連想内容、つまりだいたい過去の人との出会いを語っていると、そのうち生活が整って来るのである。その仕事は占い師、あるいは仙人の仕事のようである。仙人は田舎に住まい、世の中の流れを見ている。仙人として私は、その人の生活状況を見て、こういう生き方考え方もあるのではないかと言ってみる。それが参考になれば幸いである。
私はもはや共感も受容も、転移も逆転も考えない。ひたすら、人生の道路工事に意見を述べ、工事する人と話し合っているようなものではないか。私のうつ状態はこのような仙人生活への変化の準備のためかもしれない。クライアントと向い合って話し合うこと、それは私の50年近く前に作った箱庭のテーマであった。私の箱庭が心理臨床の世界で実現したのだと思う。箱庭は凄い。