先に小倉清先生と弘中正美先生のことについて書いたので、今度は私のことについて書きます。
私は名前の通り6人きょうだいの末っ子です。本当は末男としたいところを洲衛男にしたということでした。私の下にもう一人生まれたら留男と名付けられるはずでしたが、母親が高齢のために下にはできず、末っ子になりました。農家だったので畑仕事の時フゴ(畚)に入れられていた記憶があります。畑は遠いところにあり、帰る時歩くのがきつくて泣いておんぶをせがんだ記憶があります。腰掛けて母親の膝に纏わりついているとき、この子はいつまでも甘えん坊で中々自分でしっかり立てないと隣のおばさんに言いました。その言葉には傷つきましたが、しっかり愛してくれないから僕は自分で立てないのだと思った記憶があります。その後も甘えてみたけれどもダメでした。でも姉たちはお前が一番可愛がられたと言います。母親は、この子は母親と接するのが一番短いからかわいがるのだと言ったそうです。実際は、多分、私が生まれた頃がいちばん貧しく、母親は一家8人の家事と農作業と怒りっぽい父親を抱え疲れ果てていたと思います。
高血圧だった母親は私の大学受験の時倒れ意識不明となり、試験が終わって間もなく亡くなりました。私の大学進学を心配していたのだと思います。亡くなったその日は食べる野菜もないので私は畑に行かされ、帰ってくると母親は円いオケに入れられていました。今生の別れだからと棺桶の蓋を開けて見せられました。そこに見た母親の顔はすでに骸骨の顔になっていて、これは母親ではないと思いました。それ以後母親のことはよく思い出しますが、昨年までは夢は見ませんでした。だからマザコンからも抜け出られないのだろうと思っています。最近になって、このようなことを書こうと思ったためか、黒い影のような母親の後ろ姿を夢に2回ほど見ました。やっと、母親の問題に辿り着いたようです。
寒い冬に収穫した大根を冷たい水で洗ったり、ほうれん草の根を切り枯葉をむしりとって稲藁で束ねて市場に出す準備をしていたことが思い出されます。それに加え食べ盛りの8人分の食事を作るのも大変だったと思います。
こんな生活でしたから母親は私の相手をする余裕はなく、上から2番目の一周り年上の姉が私の世話を良くしてくれたようです。私はそのことを何も覚えていませんが、何となくこの姉に母親のような何かを感じていて、何でもしてあげたいと思っていました。
私の家は貧しかったので幼稚園にも行きませんでした。また、行っていたらどうなっただろうと思います。小学校へ上がっても友達や先生とうまく行きませんでした。喧嘩ばかりしていて、成績も芳しくなく、母親がお前の父兄会には行きたくないと言ったことを思い出します。第一子の姉と私は成績が悪く、他は抜群にできたようです。直ぐ上の兄は4歳年上で、健康優良児で、高校でも成績が良く、卒業後銀行に就職できました。この兄の援助で大学卒業後京都の大学院に進むことができました。相談でよくきょうだいの面倒を見た長男や長女の話を聞きますが、その役目としての苦労と面倒を見てもらったありがたさが身に感じられます。きょうだいで一番のぼんくらが大学院にまで進学したのでわれながら出来過ぎと思い、申し訳ないことです。これも戦後の経済的復興のお陰と思い、私のような、取るに足りない者も何とか生きて行ける世の中になったのです。
経済的には生活が成り立っても、心貧しい人間がどうして今こうして幸せに生きているのか不思議に思います。
社会性の無い私は京都での畠瀬稔先輩、鑪幹八郎先輩、村山正治先輩などにお世話になってやっと東京に就職して出て行くことができました。でも、まともな社会人ではなかったと思います。3年後に村山先輩に京都に呼び戻され、公務員になってもまともな公務員ではなく係長が呆れ果てていました。ただ、呆れ果てても何も言わないくらい腹の座った人で助かりました。
京都の大学院にいるときアメリカから帰国された河合隼雄先生が2回ほど顔を見せられ、前掛けは便利なものだと冗談を言いながら部屋に入って来られたのを覚えています。そして、チューリッヒからお帰りになったとき私を憶えていらっしゃったのでこれまたびっくりしました。
京都市カウンセリングセンター時代河合先生に個人分析を受け、曲がりなりにも自分で生きられるようになって、名古屋市立大学の神経精神科の助手になり、やっと社会人として行き始めたように思います。
このような自分の人生を振り返ってみると、私は、非行少年のように社会に出て積極的にわがままに生きるタイプではなく、今のとじこもりや不登校のような人たちに何となく親和性をもっていることがよくわかります。カッコつけて自分を良く見せようとする人とは合いません。引っ込み思案です。社会性の無い人と付き合って楽に行きたいと思っています。
京都でユング心理学を学んで名古屋に行ったとき、これから新天地で開拓的な仕事をしたいと思いました。フロイトはヒステリー(解離性障害)を研究して精神分析を築き、ユングは統合失調症を研究して分析心理学(ユング心理学)を展開し、河合隼雄先生は不登校や対人恐怖症などを研究してご自身の心理学を作られました。自分は何を研究したら良いかと考えました。
名古屋市立大学神経精神科ではロールシャッハ・テストやTAT,バウムテストなど沢山の心理検査を経験しましたが、一番関心を引いたのは産褥性精神病でした。その頃からマタニティー・ブルーという言葉が流行りました。それらの症例のロールシャッハ・テストをみると母親イメージが悪いのです。子どもができると女性は母親そして子どもの面倒を見なければならず、精神的に疲れていても代わりがないのです。特に印象的だったのは、診察の途中飛び出し病院の外へ出て行方がわからなくなり、その後電車に飛び込み自殺をした方があったのです。そういうこともあって私は女性心理を研究しようと思いました。当時の心理学で女性の心理学といえば、ヘレーネ・ドイッチの『若い女性の心理』しかなかったと思います。これは精神分析の立場から書いてあり、難しい本で理解不可能でした。自分の見聞きした事例から理解を深めて行くしか無く大変でした。
女性を研究対象に選んでも文献的研究をあまり行わず、もっぱら事例から研究を深めていったのは姉との不思議な親子のような関係性が胸のうちにあったからではないかと思います。女性を研究対象にしながら客観化することが出来なかったのです。そういうところから京都で一緒だった村山先輩にマダムキラーと見られたのだと思います。女性を客観化せず、気持ちにそって話を聞くので、性のことも含めありのまま話をすることが出来ます。
以上のような点から私のカウンセラーとしての特性は女性専科と言えると思います。
女性専科を自認する私は氏原寛先生の誘いに乗って女子大に移りました。
女子大に移って経験したのは両手に生じたアトピーでした。水疱ができて痒いので掻くと皮膚がボロボロになって手袋をはめる生活が数年続きました。ある時アトピーに苦しんだ学生が、ステロイドを一切使わなくなったら治ったと話をしてくれました。ムヒにもステロイドが入っていますというので、ムヒを見てみるとステロイドが入っているのです。今はステロイドの入っていないムヒを使っています。
丁度その頃、女子大の女性の文化に違和感を覚えていた私はそれをやっと意識化して怒れてきたのです。そして指のアトピーも治りました。
治った後で気づいたのは、女性の世界は自分にはアレルギー反応が起こるほど違和感のある世界だということでした。
社会性が乏しく、自我が弱く、女性に親和性を感じやすい自我境界の弱い自分は、女性を客観化することが難しく、研究するほどの距離が取れなかったことが問題ではなかったかと思います。
これで思い出すのは、河合雅雄著『ゴリラ探検記』(カッパブックス)です。
宮崎県幸島のニホンザルの研究が終わって、次に何を研究するかが課題となり、鰻屋の二階でアフリカのゴリラを研究することに話がまとまった。いざアフリカに行き現地の人の案内でゴリラを林の中を歩きまわって探したが中々見つからない。ある時竹やぶを分け入っているとゴリラが竹をかき分けて出てきたのに出会い、びっくりして逃げた。ゴリラがここにいることがわかったのです。それが文部省から科学研究費をもらってゴリラの研究にアフリカまで出かけた研究報告の一端なのでした。
私も女子大に入ってアトピーになりやっと女性の文化に行き当たったのです。
それでもこれまでの心理相談の経験を顧みると、自分は女性専科であろうと思います。
その拠って立つところは、母親に他の兄弟よりも余計に食べ物をもらいながらあまりかまってもらえず、姉に世話をされてそれをほとんど全く思い出すことができないというところに問題があるのだと考えます。姉の小母さん的なところが私の心の深いところにあって、私を動かしているのでしょう。
ユング心理学で考えると、影の部分は自分の劣等なところですからわかりやすく、アニマ・アニムス、つまり夢に現れる異性像で表される部分は指摘されるとわかります。例えば、私のアニマ像はおばさんでした。世話焼きおばさんと考えたとき、私を深いところで動かしていたものはこの世話焼きおばさんだとわかりました。気づいたとき自分でも笑ってしまったのですが、これをコントローすることはとても難しいです。ユングの言葉に「影の仕事は弟子の仕事、アニマ・アニムスの仕事は師匠の仕事」(影の問題は気づきやすいけれど、アニマ・アニムスレベルで表される人格の側面は気づきにくく扱いが難しい)という言葉があります。私はこの師匠の仕事に捕まえられていたのです。70代に入ってやっと少し客観的に女性心理を研究できるようになったように思います。つまり、私の特性は女性専科ということです。
それと先の述べましたように、私の社会性のなさは酷いと思います。子供時代の楽しい思い出は少なく、友達から離れていた自分を思い出します。小学6年生だったと思いますが、帰りに校門へ向かうとき見た山の景色がしばらく絵のように見えました。これは後年自分で自我体験について一文を書いてわかったのですが、離人神経症的体験だったのです。そして、更に中学生になってお風呂に入っているとき、竹林の明るい情景が見えました。自分は竹林の七賢人の独りになれるだろうか、そんなものには到底なれっこないと思っていたのですが、今の自分を見ると、賢人ではないけれど、気持ちとしては、竹林の中に住まっているような感じです。つまり、仙人的な生活をしているのだと思います。
私の離人症的な、非社会性が仙人的なのでしょう。三国志を読んだとき、諸葛孔明よりも、その友達の、どこに住まっているかもわからない催州平が、三顧の礼をもって諸葛孔明を迎えようとする劉備に向かって、「もう漢の時代は終わりだ」と言って去っていくところがいたく印象的でした。「もう河合の時代は終わりだ」と思いながらなお師匠を仰ぎ見ている自分を感じます。