私の今後の課題

私は夢を見た。それは愕然とする夢で、意味がわからなかったが、夕方になってはっきりした。
 夢に思いがけない女性像が新たに出てきた。昔々のアニマ像は理性的な堅物の女性であった。それが今度の女性像はいつも怒りを含んで、気軽に世間話をすることもせず、非社交的な態度を取って、大事な人間関係も損なっている女性が出てきたのだ。私が嫌いな女性がアニマ像になるなんて、大変なことだとうろたえた。しかし、夕方には思いがけない発見があった。非社交的な性格とは真逆の、自分に正直で自由奔放でおしゃべりなイタリア人の話を本で読んだからだ。

 前日は面接はひとりだけで暇だったから本を読んでいた。田丸久美子著『目からハム』(朝日新聞出版 2008)を少し前から読んでいて、それを読み出したら止められなくなって、時間を忘れて読んでいた。
 田丸さんはイタリア語の同時通訳をする人で、次のように書いている。
 「イタリア語の通訳を始めて三十八年、この期間二つの言葉のはざまを生きてきた。二つの言葉を使うということは、二つの国籍を持つということでもある。日本語を使う日本人の私と、イタリア語を使いイタリア人のメンタリティで行動する私。使う言葉とともに性格まで豹変する。真面目で控えめなジキル博士とエキセントリックで軽薄なハイド氏へ、イタリア語は私にとって極めて便利な変身薬だ。
 この薬の一番の効能は、イタリア語を使うと誰でも自分に正直になれる点。まず、喜怒哀楽を表現する言葉がこの上もない多彩さで揃っている。イタリア人たちは、これらの言葉を自在に操り、大げさなジェスチャーも交え、実に巧みに自分の気持を表現する。彼らはある意味、みんなが役者、それも“名優“ぞろい。日本で「彼は役者だ」と言うと、裏表がある人、いわゆる「くせ者」を意味するが、イタリア人は自分の気持にはめっぽう正直。内心とリアルタイムに口に出す言葉に嘘はない。だから彼らの言葉の裏は探る必要がない。ただし表現する気持に嘘がないことと、その気持が瞬時に変わることとは、まったく別物。「イタリア人は信用できない」という巷の風評は、彼らが嘘吐きだからではなく、彼らの気持がひどく変わりやすいかなのだ。・・・・
 イタリア語と比べて日本語には喜怒哀楽を口に出して表現する「話し言葉」が決定的に不足している。平安時代から、言葉ではなく和歌で恋の告白をしてきたほど口下手な国だ。それが武家社会になると、「男はだまってなんぼ」の価値観がさらに強くなり、「片頬三年」があたりまえになる。・・・このとんでもない教えからわかるように、日本では喜怒哀楽を顔に出すこと自体、未成熟な人間の証だった。そんなDNAを歴史に持つ日本語が、気持を口で伝える言葉に貧しいのは自明の理。私は日本語だけでは感情のはけ口を見つけることができず、欲求不満に陥ってしまうのだ。」
 この後にイタリア語の豊かな喜怒哀楽の言葉が出てくるので興味ある方はぜひ読んで頂きたい。

 私にはイタリア語の当意即妙の話し言葉は到底無理で、その側面がまったく欠けていることを夢が指摘していたのである。時間を忘れてこの本にのめり込んでいたわけがわかった。私はこの本を読む必要があったのだ。夢は私にこれから取り組むべき問題を提示したのだった。だから夢を見て愕然としたのだ。私はこれからこの新しい課題にかかわっていかねばならない。この方向に生きていくと何か新しい出会いがあると期待する。夢に従っているときっと啓かれてくるはずだ。