A先生が久しぶりに訪ねて見えた。A先生はある街の中心にある絵画教室で美大受験生の指導をしておいでになる。指導を受けた生徒さんたちは美大に進学し、卒業してそれぞれの道に進み、美術系の専門的な仕事に就いている人もあり、帰ってきて自分がやっている仕事を報告してくれる。自分が育てた人が社会に出て、今こんなことをしていると報告してくれるのは嬉しいことである。A先生は素敵な先生で幸せだと思う。
昔々、音楽のある先生が老年期に入ってうつ病になり、ある精神科に受診されて言われるには、自分は今活躍している演奏家を育てたけれど、その人達は音楽大学を出て、音楽の本場ヨーロッパに渡り、そこで専門的な指導を受けて演奏家になって日本に帰って来た。日本で演奏会を開く時、パンフレットにヨーロッパの先生の名前は出るけれど、その人を最初に指導した自分の名前が出ることはないので寂しいと漏らされたそうである。その話はいたく心にしみた。
河合隼雄先生はいつも勉強し、毎日毎日朝6~8時2時間原稿を書いて、その積み重ねで沢山の著書ができた。その発端は高校時代の国語の先生との出会いにあった。その国語の先生の授業が大変面白いので、先生のお宅に伺い、先生の授業は何故面白いのですかと尋ねると、先生は、自分は毎日毎日勉強していると答えられたという。そのことは何処かに書いてあるはずだ。河合隼雄先生は毎日文章を書くために毎日毎日勉強しおられた。一度学会大会の控室に先生をお訪ねしたとき、先生は本を熱心に読んでおられた。
河合隼雄先生がホーナイの弟子近藤章久先生をお招きしてセミナーが行われた時、その頃丁度著書を出版された近藤先生に、先生はいつ原稿をお書きになるのですかと尋ねられた。近藤先生は仕事が終わってからですと答えられたように思う。河合先生は仕事を終え家に帰って夕食を取ると、新聞に目を通し、テレビでスポーツニュースを見たりして中々机に向かうことができないとこぼしておられた。その後、学生たちとマニラに調査旅行に行かれ、朝学生たちが8時半頃朝食に出てくるので、朝6時から8時までストーの『ユング』の翻訳をし、ひと仕事終わって何食わぬ顔でみんなと食事をするのが愉快だったと言われた。この時先生の原稿書きの時間が定まったのだ。一書を書き上げるというのは大変なことで、実際に本を書いた近藤章久先生の何かが影響を与えていたのだろうと思う。
これらの例は最初の段階の先生の例である。
何故こういうことを書くかというと、自分は今も先生と呼ばれることが多く、さん付けで呼ばれるのはご近所会とか病院の受付くらいである。もうそろそろ「先生」から解放されたい。
私はカウンセリングをしていても先生をしているのではないか。私のカウンセリングを受けて臨床心理士なった人もある。20年以上も経って学会発表抄録を見ていたら昔のクライアントの名前があって、びっくりした。その方は私より偉いいろいろな人の影響を受けているので、私だけとは言えないけれど。私が家庭教師をしていた人は、私が大学院を出て経営学方面の仕事に就いたせいか、経営学部に進学したので、内心ヤバイと思った記憶がある。
この時から自分が人に影響を与えるならしっかりしなければと思った。先に生きるものの意識の芽生えである。
人生のはじめに、自分はこういう方面に進もうと考えているとき、最初の手ほどきをしてくれる先輩や先生があると、順調に初歩的な技術を憶えていくだろう。その指導をするのが最初の先生である。
ある人が言うには、私はこの初歩段階の先生には向いていないらしい。
私がスキーを習ったとき、緩斜面でスキーの履き方、方向転換や滑り方を少し習ったところで、かなり急な斜面の上の方に連れて行かれ、下まで滑って降りろと言われた。最初のカウンセリングでは、高校に入って勉強できないという男子生徒を担当させられ、一人でクライアントの話を聞くことをやらされた。数回の面接で幸い満足な結果で終わって、これで良しとなった。こういう具合に最初の手ほどきの指導を受けていない私は初歩の指導には向いていない。ただ、この道を生きることを一所懸命にやる、その一所懸命さが人を動かすのかもしれない。