私にできることは

今の仕事、心理相談を辞めてもできることはないかと考えて、短歌や俳句の世界に入ってみようと思って芭蕉の俳句集を買って読んでみた。斎藤茂吉の万葉集の解説も読んでみた。この世界は言葉遊びの世界で、幼いころから言葉になじんでいない私には遠い世界であることがわかった。第一斎藤茂吉の本を読むと万葉集はもちろんその後現代までの歌集を全部憶えているらしい書き方をしてある。古代中国文化を研究した白川静でも甲骨文字から読んだものは全部憶えていたのではないか。詩経の解説にも万葉集の歌との対比が出てきて驚いた。こんなことは読んだものを全部憶えていないとできないはずだと思った。言葉の世界は文章を読んで、読んだものを全部そのまま憶えないとついていけない。少なくとも万葉の歌の一首を読んだらそれを諳んじておかないとその解説がすらすらと読めない。

 私は面接記録すら正確にはできない。私の面接記録は乏しく、大事だと思ったことが少しだけ書いてある。クライエントのことで法廷問題が起こりカルテの開示請求などのことになったら困ると心配したことがある。

 私は内向的直観タイプだから聞いた言葉からその言葉の意味するものや可能性について考える。言葉以上のものに関心を持っているからある人は探られていると思うだろうし、他の人はすべてわかられていると思うのではないか。これによって人は私から遠ざかっていくのかもしれない。私が孤独なのもそのせいであろう。

 最近はそれほどでもないが以前は見た箱庭の作品を写真で取ったように覚えていることがあった。あなたが作った箱庭のあの隅にこんなものがあったでしょうと指摘することがあった。私には内向的な感覚タイプのところもあるらしく、他人の箱庭の作品を時々ありありと思い浮かべることがある。言葉は記憶できないがイメージの意味するものを記憶する。

言葉で記憶できないのに、カウンセリングの面接指導では記録をしっかりしなさいと常に言っている。自分でできないことを要求するのは心苦しい。でも記録はカウンセラーとしての成長の第一歩であると信じている。 私も昔々記録が大切だと思ってある先生に面接記録を見てもらったことがある。しかし、先生は余り関心を示されなかったので2回ほどでやめてしまった。そこがいけなかったのだろう、記録の技術を磨く機会を逸したと思う。その先生は私をもっと別な面から見ていらっしゃったことが後でわかった。

 今ではありがたいと思う。 これからも内向的直観と内向的感覚機能を使って心理療法に携わり、こうしてエッセイを書いて残していきたいと思う。よろしくお願いします。