私の神様はたましいです

神社やお寺に行くとその奥に神様がいらっしゃるのではないかと思い頭を下げてくることがある。しかし、鏡や、大日如来像を見てもこれが神や仏とは思えない。鏡が神の象徴とも思えないし、大仏如来像は人が作ったもので、何時代のものかと判断し、立派に作ってあるなとは思う。そこには私の信仰心は向かない。作った人のたましいをそこに感じるだけである。神と人ではなく人と人との関係でしかない。

 旧約聖書のモーセは、目の前に現れ話しかけてくる神に向かって、あなたは何という神様ですかと聞く。神は答えた。「私は在る」という神であると。英語では、I am that I am. となっている。

 このように目の前に神が現れたとしたら、その人は直ちに精神病院に入れられているだろう、普通はそんなことはあり得ないから。あったとしても多分黙っている。神を経験しても黙っていることができるなら普通の常識的な世界で生きていける。普通の人はそんなに神がいるとは考えない。ある女性は母親とともに結婚のための買い物を終わって地下鉄への階段を下りていくとき、神様が現れ、神様に向かって「ああ、神様ありがとう」と心から叫んだ。その人はそのまま精神病院に送られた。そこであなたは幸せだね、神様に祝福されてよかったねとわかってくれる人があったらその人は救われたかもしれない。しかし、普通の人は神がどこに現れるかも知らないし、神が現れたら気がふれたと思うに違いない。

 神とは何か、私たち心理療法家は考えておくべきことだと思う。

 私は在るという神、在るものはすべて神ということである。生き物はもちろん、石ころや土もすべて在るものは神である、ということである。旧約の神は汎神論である。

 日本人は「一寸の虫にも五分の魂」と考えてきた。この言葉は日本人なら誰でも知っている普遍的な考えで、日本人の宗教の根底にあると思う。だけど伊勢神宮にお参りするときそのことを意識することはないと思う。伊勢神宮には天照大御神のたましいが宿っていると人々は考えている。だけど、天照大御神のたましいは見ることも触ることもできない。伊勢神宮の一番大切なものは柱で、それを依り代として天照大御神のたましいが依りつくのである。

 たましいを表す漢字には魂と魄があるけれど、それは古代中国の考え方で日本人のたましいには合わないと思うので、ひらがな表記でたましいとしておく。

 たましいは人だけでなく虫にも木や花にある。いのちあるものにはすべてたましいが生きている。

 人が生きている間たましいは人の中にあり、死ぬと人から抜け出てどこかに行ってしまう。たましいにはエネルギーがあるので、たましいが生きている限り人は元気である。たましいを失ったように見える人は痴呆症と呼ばれる。たましいには本来限りないエネルギーが秘められている。

 自分の中にあるたましいとのつながりを作ること、それが信仰といことだと私は考えた。伊勢神宮にお参りに行くのもいいけれど、いつも自分の中にあるたましいと縁を結ぶことが大切だと私は考えるようになった。

 私の神はたましいであり、いつも自分の中にある。