長谷川泰子
西村先生のブログを旧HPから全て移行し終わりホッとしています。改めて読み返すと先生らしいものの見かた・考え方があり、また先生らしい勢いのようなものも感じられて、こういった文章をリニューアルしたHPにも掲載できてうれしく思っています。
中に源氏物語について書かれたものがあります。私は源氏物語が好きで、いろいろな人の訳で何度も読みましたが、訳者によって話の印象がだいぶ変わるところがあるように思います。与謝野晶子は光源氏が好きだったようですが、彼女の訳で読んだ時には気にもならなかった場面(若菜上 女三宮と正式に結婚した源氏が更に別の女性、朧月夜に会いに出かけていく)が、光源氏嫌いの谷崎潤一郎訳で読んだところ、光源氏の自分勝手な振る舞いに猛烈に腹が立ち、その日一日ずっと怒りがおさまらなかったことがあります。もともと原文は同じで、この二人の訳に大きな違いがあるわけでもないのですが、やはり訳者の思いがにじみ出てくるものなのかもしれません。
河合隼雄先生も著書「紫マンダラ」の中で指摘していたと思いますが、源氏物語は光源氏の話というより、それを取り巻く女性の生き方を描いた話だと言えます。一応の主人公は光源氏ですが、もうひとりの主人公は源氏の生涯のパートナーである紫の上だと言えるでしょう。実際、女性たちの中で一番登場が多いのは紫の上です。しかし紫の上より早く物語に登場し、最後の最後まで、紫の上や光源氏や亡くなった後までも登場し続ける女性がいます。六条御息所です。光源氏の最初期の恋人です。
六条御息所というのは本当の名前ではありません。御息所と言うのは天皇の寵愛を受けた女性を示す言葉で、関係があった東宮(皇太子)の亡き後、京都の六条に住んでいたから“六条御息所”と呼ばれていました。身分も高く、上品で知的センスもある優雅な女性で、多くの人の尊敬を集めているような女性です。
源氏は彼女のところに通うようになりましたが、あまりに上品で抑制がきいた年上の女性に気詰まりを感じはじめ(西村先生は六条御息所について「理性的抑制的」「内向的女性」と分析しています)、次第に足が遠のくようになります。六条御息所は淋しさや嫉妬もありながらも感情的な態度を示すことはなく、何も言わずに黙ったままです。しかし抑えた思いは物の怪、つまり生霊となり、源氏の別の恋人である夕顔を襲い、夕顔はあっけなく死んでしまうのです。
源氏の正式な妻である葵上が妊娠すると、今度は物の怪が葵上のところに現れるようになります。物の怪退散のために使う芥子のにおいが、離れたところにいるはずの六条御息所の着物や髪に染み付いて取れなくなり、彼女は葵上を襲う物の怪の正体が自分であると思い知ります。葵上は出産はしたのですが、すぐに亡くなります。
その後もこの物の怪は源氏と関わる女性たちを襲い、紫の上も一度それで命を失いかけています。後に源氏と正式に結婚をした女三宮は、物の怪に取りつかれて出産後すぐに出家し、現実世界とは縁を切ってしまいました。
そして六条御息所も源氏も亡くなり、物語がその子供たち世代中心の宇治十帖の段に移ってもこの物の怪は登場するのです。薫と匂宮という二人の男性から愛され、どちらに従うべきか決められない浮舟に物の怪が取りつき、浮舟は入水自殺、未遂に終わりますが結局は出家してしまいました。
浮舟に取りついた物の怪の正体についてはっきりと書かれているわけではありません。しかしやはり六条御息所と考えられるように思います。浮舟に執着している薫は、血はつながっていないものの光源氏の正式の息子であり(実際には女三宮と柏木の子)、源氏の関係者なのです。
表に出さなかったはずの光源氏に対する恨みの気持ちはどこかに残り、物の怪というかたちで繰り返し現れ続けています。抑え込んだ強い思いは予想もしなかったところで、自分ではコントロールできないかたちで、はっきりと分かりやすく示されてしまっています。そしてそれは六条御息所の死後、彼女のことを知らない後の世代にも強い影響を与え続け、人生を思いがけない方向に導いているところがあります。
臨床場面でしばしば、これと似た状況に出会います。
相談に来られた方に詳しく話を聞いていると、今の問題はここ最近の出来事の影響だけではなく、はるか昔の問題が影響を与えていると分かることがあります。例えば子供時代の出来事、それにまつわる強い思いがあり、その時はどう考えていいか分からず誰にも言えないまま自分の中に抑え込んだままここまできたけれど、今になってその影響がはっきりとしてきたということがあります。また、今の問題はこのクライエントだけのものではなく、親の代からのもの、あるいは更に上の、親の親の代からのものだと考えられるケースがあります。昔に何か大きな出来事や不自然なことがあり、それが今になって影響を与えています。当時は、あまりに大きな問題で皆どうしていいか分からず、ただそれを抑え込み、無かったことにして生きてこなかったのかもしれません。あるいは思いを語る余裕がなかったのかもしれないし、当時の時代背景を考えるとどうしようもなかったという場合もあるでしょう。しかしそれが今になって別のかたちで現れるのです。現代にも物の怪は現れるのです。
どうすれば六条御息所の物の怪はしずまるのでしょうか。源氏は物の怪として現れた六条御息所に嫌気がさし、離れていくだけでした。娘は母が死後も物の怪となって現れていると知り、母のために供養を行っていますが、それでも物の怪は現れ続けました。本人も周りも、皆、この物の怪を抑えこもうとするだけで、まともに相手をしていません。
物の怪は何を求めていたのでしょうか。本当に言いたいことはなんだったのでしょうか。カウンセリングはこういった“物の怪”を大切に扱うところだと言えます。物の怪を消し去ろうとせず、むしろ真実を抱える存在として重要視し、物の怪の言葉に積極的に耳を傾ける、そこから改めて次の生き方を考える、それがカウンセリングでできることではないかとも思うのです。