私たちは、母親はいつでも子どもために生きていると思っている。しかし、それは母親神話である。良い母親、悪い母親という分け方をする人もある。それも心理学的な観念に過ぎない。良い母親も悪い母親も心理学者が考えた心像である。それは実在しない、観念的な母親であると思う。私たちはそういう神話的な母親や心理学的に描き出した母親像で仕事をしている。そういうイメージや観念の背後に、本当の一人の人間としての女性がいることを思い知った。
グリム童話には、子どもたちを森の中に捨てようという母親が出てくる。子どもたちはもう一人で生きていけるはずだから、私たちが世話をしてやる必要はないと考えている。娘が美しくなり男性と出会っていくとき、私が育てた娘はもっと素敵な男性と結婚すべきだと考える。
自分も働きたい、もっと勉強したい、人に自慢できるような家庭を子どもたちに作ってもらいたい。そういう親の心の背景に自己中心的な一人の女性がいる。
自己中心的な女性が主体となったとき、母親像も妻も嫁もペルソナに過ぎないことがわかる。恋人もそうかもしれない。動物的に生きる人間の姿の一面である。女性というのもペルソナに過ぎなくなった。ペルソナを剥いだとき出てくる一人の人間がある。
私たちカウンセラーはこのようにいろいろなペルソナを持つ一人の人間を相手に面接する時代になった。このようなペルソナをどのように付け替えるか、感情をどのようにコントロールしていくか、それは着けたペルソナの具合による。母親としてはやさしさが期待されるが、働く女性としては有能さの証としていろいろな指示を子どもに出すことになるだろう。母親神話を捨て、ペルソナから自由になったとき、母親ゆえに要求される甘えを拒否したくなる。実際、嫌だと叫びだしそうな人が見えてきた。
個人主義の競争原理の社会は、助けを求めることなく一人で生きる社会だということがやっとみんなわかったのではなかろうか。そこで、大きくなっても助けを求める子どもに母親はしかめっ面をするほどになった。
父親はどうか。父親はずっと前からそうだったが、今では怒り対決してくる母親の前で涙し、沈黙しているのではないか。昔、母親がそうだったように。競争社会になって昔の父親と母親の立場が逆転したのだ。
息子や娘たちはこういう状況でも自分に必要な甘えを主張し、自立への一歩を踏み出さねばならない。甘えのない自立は不可能なのだから。