中心の意味について

西村先生が大学教員時代に使われていたと思われる講義ノートに挟まれていたもので、先生が参加されていた東海箱庭療法研究会のニュースレター用(20015月)に書かれた文章です。

東海箱庭療法研究会様のご了承を得て掲載しております。

 

東海箱庭療法研究会ニュースレタ--2001/05

 

中心の意味について

                                                   椙山女学園大学 西村  洲衞男

箱庭に現れる中心の意味について考えてみたい。それは最近富に重要な象徴になって来 ているように思われるからである。

無秩序に隙間なくミニチュア玩具が置かれた箱庭の後の作品に中心が忽然と現れてくる

とホッとする。

無秩序な世界には自分がない。どれが大事なもので、どれが墳末なものであるか判別が つかない。

自分は大切なものである。だから箱庭表現の中で大切に扱われているもの、一番意味を

もっているように見えるものは、その人にとって一番大切なものであり、その人の身代わりであり、その人自身であるのだ。

大切なものは箱庭の中心にあるか、情景の中で中心になっていて、その世界を中心にし て世界が展開されている。

そのような中心は世界の中心であり、世界全体を支えるものである。

それは自分自身でありながら、自分の外にあって、しかも自分である存在、それは自分

の中の自分であり、外にあるという意味では自分ではない。

私たちの心の中にある、大切な自分、それは自分の中にあって、自分ではないみたいでありながら、自分以外のものではない。私の中の私。それが私の中心である。

世界の中心の象徴、それは1本の木や石で表わされるとエリアーデは言っている。

エルサレムの中心にあるのは大きな岩である。巡礼者がエルサレムの寺院の中に入って 触れるのはその大きな岩である。ヒンズー教や仏教などいくつもの宗教の聖地になってい るカイラス山は大きな岩の塊に見える。

日本の中心は伊勢神宮であると考えることもできる。出雲の八百万の社はーつの中心に は違いないが、伊勢神宮はもっとも格式の高い、日本の神道の中心である。

その伊勢神宮の中心にあるもの、それは神の御霊の依り代で、1本の木の柱であろう。 神様の姿は見えないが、その柱に依っていらっしゃる。だからその柱は大変重要なものなのである。

私たちはそれぞれに自分の中心をもっている。その中心がどこにあるかわからないとき 私たちは不安定になる。不安定になったら一心に自分を探そうとする、自分は何かと。自分は何もない。自分が何かはわからない。だけれども、自分の心の拠り所は作っておきたいものである。

キルケゴールは自分が自分自身でないときが病気なのだと言う。病気を治すことは自分 が自分自身になるということである。心理療法の目的は自分自身になることであり、さら には自分は自分以外の何ものでもないということに気づくことである。コンプレックスの 塊ならば、コンプレックスの塊になること以外のなにものでもない。コンプレックスだら けの自分が一番強いのだ。その訳は自分の中心にいるからである。それを開き直りと言っ たり、心理学ではコンプレックスの解消と言ったりする。しかし、本当の意味でコンプレックスを無くすことは難しい。不可能に近い。むしろコンプレックスを排除しないで、コンプレックスの中心に居座ることの方が安定感が出てきて、人間がやさしくなる。コンプレックスを努カして克服した人は強いが、やさしさに欠ける。

人には強さも必要であるが、むしろ、安定感ややさしさや生き生きとした感じが人の私

を広げて行くのではなかろうか。

人の強さは大きなもので、あるいは、攻撃的な武器や、それを持つものによって象徴される。それらは多くの場合、中心にあるよりも中心から外れたところにあって、中心にあるものは、攻撃的でない乗り物や家や大きな木や山などである。それらは心の乗り物であったり、心の依り代であったりする。生きとし生けるものの心の依り代が強いものよりもずっと大切なのである。強い怒りに満ちた不動明王よりも、やさしい慈悲に満ちた大日如来や千手観音の像が中心にふさわしい。

心理療法家は病気を治すけれども、それはキルケゴールの言う意味での、病からの回復、 つまり、自分自身になると言うことであって、その自分自身と言うのは、強い自分だけと言うのではなく、むしろ、よわい、欠陥を持った自分、間違いを犯す自分、など悪と評価されたすべての自分を含めた自分を認め、その自分の全体の中心に位置することこそが大切なのだ。

 

私たちが自分の内面の欠陥を認め、障害を認め、弱さを認めるとき、私たちの心のそこから明るい笑顔が現れ出てくるのである。その笑顔はわざと作った笑顔でも、高笑いでもなく、自然な明るい笑顔である。私たちはそのような安らかな笑顔を障害を持って生きる人々の中に見出すことができる。それは心が自分の中心にある人の笑顔である。

 

次へ 前へ〉