長谷川泰子
片付けるべき雑用がいろいろと溜まる。いくつかの買い物や、ちょっとした調べもの、出すべき手紙やメール、ささいな頼み事など、一つ一つはたいしたことではない。今すぐやらなくてもいいけれど、しかしいつかはやらないといけないことでもあり、気にはなる。
たまたま一日まるごと空いた日があり、前々からやりたいと思っていたことをやろうと決めた。しかしその前に片づけるべき雑用をさっと片付けてしまおうと考えた。気になっていることを済ませてすっきりすれば、気分良くやりたいこと、やるべきことに取り掛かれる気がした。
一日を丸々使えると思うと張り切る気持ちもあった。楽しみだったと言ってもいい。前の日に済ませるべきことを書いたメモを作り、項目の多さにちょっとびっくりはしたが、いざ翌日取り掛かかってみると一つ一つはささいなことで次々と済ませられる。調子に乗って、ついでにあれもこれもと更に欲をだした。すっきりさせたいがために予定にないことまで手をつけて、気がついたらあっという間に時間がたっている。すでに午後のもう遅い時間だ。そこまで来てやっと気が付いた。どうでもいい雑用に時間とパワーを取られ、自分が本当にやりたいこと・やろうと思っていたことのためには、残りもののような時間とパワーをあてるしかない。
西村先生から、河合隼雄先生は朝に原稿を書かれると聞いたことがある。村上春樹も小説の仕事に取り掛かるときには、早朝に起きてすぐに仕事をすると言っていた。毎日決まった枚数の原稿を書いて午前中のうちに仕事を終えてしまうのだそうだ。朝のクリアな意識、雑事に入り込まれない新鮮な気持ちや考えを、自分が大事だと思うことにそのまま使うということなのだろう。自分に集中して自分の仕事をしようとするなら、やりたいことがあるなら、とにかくそれを一番にやるしかないのだ。大事なことが最初である。用事を済ませてすっきりしてからと思っていても、雑用がすっきり片付くことなど永遠にないだろう。
片付けられない人がいる。そういう人の話を聞く機会も多い。いい加減でだらしない人のように見られることも多いかも知れないが、話を聞くとむしろきちんとしたいという気持ちが人一倍強い人のようにも思える。きちんとしたいと思うからこそ、片付けも手を抜かずにちゃんとやりたい。だからこそ気軽に片付けに取り掛かれなくなっているようだ。
片付けるためにはものを捨てなければならない。しかし、長い間そのままになっているものばかりなのだから全部要らないものだろう、まとめて捨ててしまえということができない。中に大事なものが混ざっていたらどうしようと考える。捨てるなら一つ一つきちんと確認したい。大事なものをきちんと選んで残し、そうでないものを捨てて片づけようと思う。しかし結局、どれもこれも大事なもののように思えてしまう。というか、いつか大事なものになるかもしれない、必要なものになるかもしれないと思う。だからこそ、あれもこれもとっておきたくなる。結局いつまでたっても片付かない。
何かを選ぶということは他を捨てることである。しかしひとつを選んで、他の残りの中に何か良いものがあったらどうしようと思う、その後悔が恐ろしいのではないか。可能性を捨てることが怖いということなのかもしれない。
片付けたいのに片付けられない人は、きちんとしたい、ちゃんとやりたいという意志はある。むしろ強すぎるかもしれない。その点、ある程度の自我の強さはあるのだと思う。しかしそこから更に進んで、何かを選ぶために他を手放す、その決断が難しい。これで良かったのか、間違っていなかったかという不安を抱えながら進む自分、その自分を引き受ける勇気が必要になる。
こんなふうに言うとよけいに片付けることに不安が出てくるかもしれない。しかし可能性を抱えているつもりで身動きがとれないままに時間が過ぎ、何にも手が付けられず全ての可能性を捨てざるを得なくなるのは悲しいとも思う。むしろ一歩を踏み出すこと、歩き続けていくことで新しい可能性が見えてくるのではないか。カウンセリングは、この大きな一歩をどう踏み出すか、それを一緒に考える場でもあったりすると思う。