先に公開した「西村臨床心理学」と同じ形式で保存されていた文章です。最終更新は2008年10月、何かのセミナー、あるいは講義のために用意された文章かもしれません。
アニマ・アニムスの発展過程
ユングは心の元型としてアニマ・アニムスを認めました。
アニマは男性の心の女性的な部分を代表するもの、アニムスは女性の心の男性的な部分を代表するものです。
男性の夢に現れる女性像がアニマを、女性の夢に現れる男性像がアニムスをあらわしているです。
アニマ・アニムスは無意識の基本的な行動パターンを表していると見ることができます。
例えば、男性の夢の中に、物事をきちんきちんと片付けていく礼儀正しいおばさんが出てくるとすれば、その人は生活のなかできちんきちんと物事を処理し、周囲に対して礼儀正しく行動していると見ることができます。また、夢に裸の女性が出てきて、その女性が自分の欲望を何の抵抗も無く受け入れてくれるとすると、その男性は外からの要請に対して何の抵抗も無く受動的に対処していると見ることができる。
女性の夢で、父親が出てきて機嫌よく困っている自分を助けてくれたとすると、その女性は困っている人を優しく助けてあげることができるだろう。あるいは、水泳の指導員と一緒に泳いでいる夢を見たとすれば、その人は指導員のような態度を周囲の人に対してとりたがるであろう。
このようにアニマ・アニムスの態度はその人の社会的な態度を表している。したがって、アニマ・アニムスの発展段階はその人の社会的な関わり方を反映してると見るのである。アニマ・アニムスが母親や父親であれば、社会的な関係において親にかかわるような態度で接するであろう。ある女性でアニムスが弟であった。その人は弟に対するような遠慮の無さで付き合っていた。それは傍からはわがままに見えたけれども、周囲の人はわがままな弟を世話するようにしていた。アニマが母親であれば、彼は母親のように隔てなく接し、周囲の人は彼をかわいらしい子供のように親しむのである。
ユングはアニマの発展段階をイヴ、ロマンチックあるいは美的女性、聖母マリア、叡智の女性と四段階を認めた。
イヴは母親、母性である。このとき男性の自我は子どもレベルにある
ロマンチックあるいは美的アニマは性的美的女性で、親密への要求が大で自己顕示的である。この段階の自我は大人であり、男性的積極的で、競争的で戦いを好む。
聖母マリアは子どもを育てる人である。この段階の自我は子どもを生み出す生産的な能力と育てる配慮性があり、グループのリーダーになることができる。
叡智の女性は人生経験から得た知恵で生き、危機的な状況で思慮深い。戦いを避け、調和を重んじる。相手のことだけでなく相手を取巻く人々の幸せも考えていくので本当の知恵が必要となる。知恵を生み出す能力と言えよう。
ユングは以上のようなアニマの発展段階を概念化したけれど、アニムスについてはわからないことが多いと概念化を避けた。
女性では知性的な意見を持ったアニムス優位の女性が特徴的である。
ユングの妻、エンマ・ユングは、ゲーテのファウストにGodの訳するのに力、知性、知恵があげられているところから、父親、力、知性、知恵の四段階とした。
ユング研究所の中心的な存在であったマイヤー、C.Aはアニマの発展段階を紹介するとき、母親、父親の次に母親代理、父親代理を設定した。夢には親の代理になるような近所のおじさんおばさんが出てくることが少なくない。この親代理のイメージは異性につながる前段階として重要で、人間関係にかなりの影響を与えている。夢分析では重要な検討の対象である。特に親との関係が阻害されている場合、親代理が代わりを務めて関係の安定を保っていることが多い。
以上見てきたように、フロイトの発達理論もユングのアニマ・アニムスの発展段階も概念的に設定されているところが多い。観察事実を積み上げて理論を作ったというよりも、大体当てはまりそうな概念的なものを造り、それで心の現象を説明するのである。これらの理論は蓋然的にしか当てはまらないのである。そのことを心においておきたい。
エリクソン、E.H.の精神発達漸成説を見ると、フロイトとユングの考えをつなぎ合わせ、それを統一的に言い換えていることがわかる。エリクソンの独自性はフロイトが性器期と簡単に述べた青年期にアイデンティティを付け加えたことにある。アイデンティティはフロイトの性的精神発達ともユングのアニマ・アニムスとも違う考えに立っている。
アイデンティティは自我が心の歴史や文化や身体など、自分と自分を取巻くすべてにしっかりと根ざしていることを意味している。性的エネルギーであるリビドーの使い方としての自我機能でも、アニマ・アニムスの人間関係の機能でもなく、むしろ、自我の存在という宗教的な安定性と見た方が理解しやすい。この概念は今では質問紙で調査されるものになっているが、本当はもっととらえどころの無いイメージと言った方がよい概念である。