前回掲載の原稿の続きです。「Ⅰ 古代人と夢」「Ⅱ 夢解きヨセフの物語」と二つに分けられて保存されていましたが、同じ「夢分析の歴史的背景」というタイトルのもとにまとめられており、二つをまとめて公開します。
夢分析の歴史的背景
Ⅰ 古代人と夢
国文学者西郷信綱は夢を信じた人々を古代人と呼び、『古代人と夢』という本を著しました。特に長谷寺の夢信仰が紹介しされています。昔は夢のお告げが信じられていましたし、その伝統は今も残っています。長谷寺に朝早くお参りするとその有様を見ることができます。
古代ギリシャにおいても、治癒神アスクレピウスを祭る神殿医学は夢のお告げによって治療を行っていたといわれています。マイヤーは『夢の治癒力』を書いてそれを紹介し、現代の心理療法における夢分析もそれと同じであることを明らかにしています。
神学者山形孝夫は『治癒神イエスの誕生』という本を書いていて、その中で、ヤコブと天使の戦いがキリスト教と医神アスクレピウス信仰との戦いで合ったのではないかという仮説を出しています。ヤコブ、つまり、キリスト教が勝って、新たな治癒神としてイエスが誕生してきたのではないかというのです。
新約聖書を読むとイエスが沢山の治療的な行為を行っていることがわかります。イエスは人の重荷や苦しみを負うことによって癒しを行っています。これは夢に拠らない新しい治療法です。患者の重荷や苦しみをわがこととして背負い考え苦しむのです。そうすることが何か不思議に癒しにつながるのです。来談者中心療法を行う人はそこまでは考えていないでしょうが、究極はそういうところに行き着くのです。
旧約聖書の時代は夢や幻が信じられていました。旧約聖書では、夢はとても少なく、ほとんどが幻、ビジョンです。モーセに神が現われ、あなたはエジプトで苦しむイスラエルの民を率いてカナンの地に帰りなさいと告げました。モーセは神の呼びかけに驚きますが、あなたは何という神様ですかと質問し、幻のなかで神と対話をします。神も「私はあるという神である」と答えます。この会話はとても興味深いのです。つまり、ビジョンのなかでモーセは主体的に生きているのです。
人は幻や夢の中では大抵受身的で一方的に何かのイメージが迫ってくるばかりで、自分が主体的に動くことができることはとても稀です。ところがモーセは主体的に幻の中で神にかかわっているのです。夢の中で夢を見ている人が主体的に動くことのできる夢を明晰夢と呼びます。その研究報告をしている人は富山大学の斎藤清二先生だけです。斎藤先生はとても知的に明晰で客観性を持った方なのでできるのだと思います。弱い自我では到底できないことです。
そこから考えるとモーセという人はとても強い自我を持っていた人であるみなすことができます。強い自我を持つと大抵自分が防衛も強くなるので聖なるものへの素直な心がなくなるのですが、モーセは強い自我で、しかも聖なるものに向う無垢な心を持っていたということができます。
旧約聖書には夢が少ないと言いましたが、創世記の後半は夢解きヨセフの物語です。この物語が創世記にあるということは夢のことがとても重要であることを聖書をまとめた人々が認めていたということではないかと思います。
このヨセフの物語は夢が人の人生を、そして国と自然の運命にかかわるものであることを示しているものです。この物語は長くとても興味深いので、章を改めて述べることにします。
Ⅱ 夢解きヨセフの物語
旧約聖書や新約聖書には夢が出てきますが、ビジョンや幻の声で直接神がかたりかけるのがほとんどです。特に旧約では夢の話はめずらしいが、創世記の終わりの部分にヨセフの物語として夢が取り上げています。神が行おうとしていることが夢を通して伝えられるということを明確にした物語です。
その物語は次のような話です。
ヨセフはヤコブの子どもで、17歳で父の側女の子どもたちと一緒にいて、兄たちのことを父に告げ口していました。随分幼い性格でおそらく兄弟の交わりの薄い男の子だったと思われます。それでも父親に一番可愛がられているので兄たちは彼を憎んで、穏やかに話すことができませんでした。
ヨセフは夢を見て兄にたちに話したのでますます憎むようになりました。
その夢とは「畑でわたしが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、お兄さんたちの束が周りに集まってきて、わたしの束にひれ伏しました。」というものです。兄たちは、お前はわたしたちの王になるというのかと、ますますヨセフを憎みました。
ヨセフはまた夢を見ました。その夢は、「太陽と月と十一の星が私にひれ伏している」というものです。今度は兄たちだけでなく父にも話しました。父はヨセフを叱り、「一体どういうことだ、お前が見た夢は。わたしもお母さんも、思えの前に行って地面にひれ伏すというのか。」
兄たちはヨセフを憎み、父はこのことを心に留めました。叱りはしたもののそれ以上のことはしなかったのです。
その後、兄たちはヨセフを殺そうとしましたが、兄弟の1人は反対した。そこに丁度商人が通りかかったので兄たちはヨセフを売り、ヨセフの着物に雄山羊の血を浸し、父に送って、ヨセフは野獣に襲われて死んだことにしました。父はとても悲しみました。
売られたヨセフはエジプトの宮廷役人、侍従長の家に仕える身となりました。
ヨセフは賢く人格的に優れていたのか、主人はその資質を見込み、家の管理すべてをヨセフに任せたのです。ヨセフは顔も美しく、体格も良かったのです。
彼は美しく賢かったので侍従長の妻は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は主人を裏切ることはできないと、彼女の求愛を拒みました。すると彼女は人払いをしてヨセフを引き入れ求愛した。彼が拒むと、大声を出してヨセフが私を犯そうとしたと言ったのです。そのためにヨセフは監獄に入れられた。彼女がつかんだ上着が証拠に陥れたのです。
監獄に入ると、その後エジプト王の給仕役と料理役が入れられてきました。
二人は間もなく夢を見たが夢を解き明かす人がいないと嘆きました。
それに対してヨセフは「解き明かすことは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言ったのです。
ここが大変興味深いところです。解き明かすのは神ではありませんか。だから夢を話してくださいというのです。解き明かすのは神、ということは話を聞いて浮かんでくるもの、思いつき、良く言えば、インスピレーションが神のメッセージだということです。フロイトはこのような解釈を非科学的として無視しました。しかし、ユングはこのような夢解釈をしています。
給仕長の夢は「一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には、三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯にしぼり、その杯をファラオにささげました。」というものであった。
ヨセフは「その解き明かしは。こうです。三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオはあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。」と言い、幸せになったとき私のことを思い出してください、私はヘブライ人で何も悪いことはしていないと言います。
料理長の夢は、「編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。一番上の籠には料理役がファラオのために調えたいろいろな料理が入っていましたが、鳥が私の頭の上の籠からそれを食べているのです。」
ヨセフは、「その解き明かしはこうです。3個の籠は三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」と言ました。
三日目はファラオの誕生日で、二人は呼び出され、裁きはヨセフが解き明かしたようになりました。しかし、給仕役はヨセフのことを思い出しませんでした。
ヨセフの夢の解き明かしは見事なものですが、解き明かしを受けた給仕役はヨセフのことを忘れてしまいました。現代の心理療法でも分析家の解き明かしはこのように見事なものであっても忘れられやすいものではないかと思います。夢の解き明かしよりも、夢を見ることが大切なのだと思います。
そのことがあって2年たったとき、エジプトの王が夢を見て、その意味を解き明かさねばならないと感じました。
同じ夢を繰り返し見たり、夢を見て胸騒ぎを感じることがあります。そういう夢を見たときは何か重大なことが起こりつつあるときですからしっかりと考えなければならないのです。
「ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、良く肥えた七頭の雌牛が川から上がってきて、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がってきて、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、良く肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオはそこで目が覚めた。
ファラオがまた眠ると、再び夢を見た。今度は太って、良く実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、身の入っていない、東風で干からびた七つの穂が、一本の茎から出てきて、実の入っていない穂が、実の入った七つの穂を飲み込んでしまった。ファラオはそこで目が覚めた。それは夢であった。朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった。」
このときになってやっと例の給仕役はヨセフのことを思い出し、今までヨセフのことを忘れていたことを思い出します。カウンセラーの存在は普段は忘れられますが、周囲の誰かが心の危機に瀕したとき世話になったカウンセラーのことが思い出され、紹介の労をとるのではないでしょうか。幸せなときカウンセラーは必要が無いのです。
ヨセフはファラオの要請で監獄から出され、ファラオの前に出て夢を聞き、解き明かします。
「ファラオの夢はどちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭の良く育った雌牛は七年のことです。七つの良く実った穂も七年のことです。どちらも同じ意味でございます。その後から上がってきた七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これからは七年の飢饉のことです。これは、先ほどファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に、七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。」
ヨセフは豊作の間に食料を備蓄し、それに続く飢饉に備えなければならない進言します。ファラオはこれを聞いて、お前ほど聡明で知恵のある者はいないと言って、ヨセフを「宮廷の責任者」にし、「国民はお前の命令に従うであろう。ただ、王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」とファラオは宣言します。ヨセフはファラオに代わって国を治める、エジプトの最高の地位に登ったのです。
この後七年の農作が続き、ヨセフは国中倉を作って食料を備蓄させます。そしてやがて飢饉になり、方々から食物を求めて人々がエジプトにやってきました。そのなかにヨセフは兄たちを見つけ、かつて見た夢を思い出しました。兄たちはヨセフにひれ伏しました。ヨセフは自分を明かさずに、策を弄して一番下の弟や両親を連れてこさせます。それで両親も含めみんながヨセフにひれ伏すことになったのでした。太陽と月と12の星がヨセフにひれ伏すという夢が実現したのです。
夢はこのように人生の全体にわたってそのプロセスをアレンジすることがあるのです。
私は夢が人生をアレンジすることを自分の夢分析に結果から実感しました。5年間の教育分析の結果、最後の方で見た夢が15年後に実現しているのを感じたのです。その影響は今も残っている感じがします。箱庭もまた同じです。最初に作った箱庭のイメージは私のなかに生き続け、私を支えています。
このように偶然に遊びの中や夢に湧き出てくイメージは人の心の支えになるのです。ですから、イメージによってコンプレックスを解消し治るというよりも、コンプレックスによって見えなくなっている深層のイメージを探し出し、自分に最も適したイメージを発見することが心理療法の課題だと思います。