心理臨床の世界いつの間にか外向型になってしまって、内向的な心理学ははやらなくなっていて、残り少ない人生をどう生きるか悩みました。
河合隼雄先生が亡くなられてからユング心理学の大事な概念であるシャドーやアニマ・アニムス、死と再生、シンクロニシティ、自己など重要な概念がほとんど殉死してしまった感じです。私も本当は殉死しなくてはならないのかもしれません。
村上春樹さんの『ノルウエイの森』が映画化されました。私はまだ見ていませんが、この映画を見て涙を流すほど感激した人と、原作とまったく違うイメージで「これは何だ!」と違和感を持った人も少なからずあるようです。
人によって立場によって理解の仕方が違う、人それぞれと言えばそれまでですが、何とも落ち着かない面があるので、やはり、内向と外向で割り切れるものなら、この際考えておきたいと思います。
村上春樹さんは心の井戸掘りをして深層心理に果敢に挑戦している作家だと思います。『1Q84』のBook2でアニマのイメージを取り出して見せてくれました。この発掘作業は小説の構成からみても明らかに河合隼雄先生の心の支えがあってできたことではなかったかと思います。まるで眠ったように生きていられた河合隼雄先生のような父親への半生の語りの後でアニマに出会ったのです。そのアニマは「空気さなぎ」と呼ばれ、10歳で出会った少女の化身でした。それは心の目にしか見えない存在で、まるで空気のようで、繭の中に眠っているたましいでした。Book3では主人公は10歳の時に出会った青豆さんと出会い結ばれます。青豆のようなしっかりした生き方が村上さんの深層の生き方だと言って良いでしょう。
アニマ、つまり、たましい、その在り方、そのはたらきは外的にはほとんどつかみようがありません。アニマ像として現れたイメージから推測するほかはありません。
アニマと言えば、ユングが精神的に不安定だった時期に心の支えになったトニー・ウォルフという、妖精のようなこの世離れのした女性像を思い浮かべる人も多いと思ますが、彼女はただの一人の女性でしかありません。ユングのアニマはもっと積極的で攻撃的な女性ではなかったでしょうか。最近『赤の書』というユングの内的なファンタジーを収めた本が出ました。それは見ていませんが、以前に出ている夢の本をみると、ユングはファンタジーの中で女性と相当に議論をしていたと書いています。アニマが批判的で議論を挑んでくるので、ユング自身は自己批判し、自分の生き方を比較対照しながら考えて生きていかねばならなかったのです。このような内的な過程は外向型の人にはわかりにくいのではないでしょうか。
『人間と象徴』だったでしょうか、当時の現代人のアニマとして、愛車を水洗いして磨いている男性の写真があったと記憶しています。当時の現代人のアニマ像、それは愛車でした。富を得て、知性と富の力で自由にこの世を走り回る生き方、それこそが資本主義社会の自由な生き方でした。それは自動車に象徴されるものでした。しかし、もうその時代は終わったと思います。
現代の私たちのアニマ・アニムス、それは携帯電話です。このイメージがわかる人は内向型で、ピンとこない人は外向型です。みなさんはわかりますか?携帯電話の中にたましいが込められているのです。携帯電話は携帯電話だというのは外向型の答えです。
携帯電話はつながるということを意味します。現代は人々が個性化し、家族のつながりさえ消えかかっています。携帯電話のメールに返事ももらえなくなったとき人々は孤独の中に気分が沈みます。これは外向型も内向型も同じです。外向型の人は次につながる人を探し、他のつなぎの方法を考えるでしょう。内向的な人は携帯電話が役に立たなくなったときもっと愛し甲斐のあるものを探すに違いありません。私はきっと野良猫ハチロウとキュウタロウをくれた人を思い、この懐きにくい猫を可愛がっているとあの人にきっと良いことがあると信じてかわいがるのではないかと思います。
この正月休みはまるで家の中に入ってきた野良猫のように気ままに食べて寝て怠けています。今年も私は猫年です。