プレイ・セラピーのすすめ “相談室のこどもたち”から

  遠見書房「子どもの心と学校臨床」第5号(2011年8月)に掲載された西村先生の文章です。“リレー連載 相談室の子どもたち(5)”として掲載されました。遠見書房様の許可を得て掲載します。

 

 

 

 

プレイ・セラピーのすすめ

檀渓心理相談室 西村洲衛男

 

 「リレー連載 相談室の子どもたち」に本誌発行人のご厚意でスクールカウンセラーもしていない時代遅れの私が書くことになった。私は「発達障害」や「広汎性発達障害」という流行語にまったくついて行けない。昔の臨床心理士というほかない。そういう私が子どもについて書くと愚痴ばかりになってしまうので、この原稿は何度も書き直す羽目になった。お見せできるのはやっとこの程度である。老人の愚痴として読んでいただきたい。

 昔は子どもの心の問題と言えば、不登校は少なく、指しゃぶり、爪嚙み、幼児語、吃音、 チック,、鍼黙、 粗暴、 夜尿、 頻尿、 原因不明の腹痛や頭痛、 不明熱、 友達が無い、 無口、 動作がのろい、 おとなしすぎるなどであった。これらの問題に対してプレイ・セラピーが良く効いた。夜尿症の多くのものは数回のプレイ・セラピーで治った。指しゃぶりや幼児語、 おとなしい、 動作がのろい、 無口、 友達が無いなどは今では発達障害に入れられていると思うが、これらの問題を抱えた子どもたちを一対一のプレイ・セラピーで、子ども主導で自由に遊ばせその相手をすると、 やがて退行現象が起こり,、子どもは幼児的な活力を取り戻し、家でも外でもかかわりを広げ、いろいろな問題が解決していったものである。吃音やチックや緘黙症も小学校3〜4年生までにプレイ・セラピーを受けさせるとかなりのところ改善したものである。

 こういう経験をしていた私は私設相談室を開設するに当たってプレイルームを設けたが、そのころからプレイ・セラピーはもはや流行らなくなっていた。近年認知行動療法が盛んになってある先生に大学院でプレイ・セラピーをどのように教えているのですかと聞いたら、子どもをプレイルームで遊ばせその観察結果から認知の仕方を改善していくのだと聞いて、私のイメージするプレイ・セラピーとまったく違っていることを知った。

私のイメージするプレイ・セラピーは先に述べたように、プレイルームで子どもが自発的に自由に遊ぶ中で、主体的に認知し好ましいものを自分で選択し空想に任せて自由に遊ぶとき、そこに子どもの世界が展開し、世界は子どもの支配する世界になって、主体的に自由に生きる力を身につけていく、それによって子どもはさまざまな心の問題から解き放たれていくというものである。来談者中心療法的に遊びの相手をしていると子どもの問題は大抵解決するので小学校に配置されたスクールカウンセラーはプレイルームを要求してどんどんプレイ・セラピーをやってほしいと思っている。

ただ現在問題なのはプレイ・セラピーの過程で生じる退行をいかに親や先生に受け入れさせるかということである。今や多くの親や先生方が子どもの幼児的な状態を受け入れることができない。教室の床でゴロゴロ寝転んでいる子どもや自分の席に座っておれずウロウロと歩き回る子どもたちがいる。これらの子どもたちは、私の精神発達の観点からみると、まだ、心が立ち上がっていないのだし、養育者の膝に安心して座ったことのない子どもたちなのである。つまり愛着の問題なのである。

 愛着の問題というと親子関係が問題で、養育の仕方が悪かった、つまりは親の責任だということになる。しかし、このような因果的な見方は今の時代に許されなくなった。

 しかし、この問題は親子の問題であるが、親一人一人には責任がないと私は考えている。大体、今の親や先生方自身は、甘えず自立を促すことを勧めた『スポック博士の育児書』の影響を受けて育った人たちで,十分な愛着を経験していない人が多い。甘えを抑えるという考えは大体昭和40年頃、つまり粉ミルクによる養育が盛んになった頃から始まった。当時の母子手帳には「抱き癖をつけてはなりません」と書かれていた。愛着不足はお役所主導で生じた社会の問題であって、一人一人の親にも先生にも責任はない。これには土居健郎の『「甘え」の構造』も加担しているかもしれない。甘えは日本独特の文化で英語には翻訳できない、だから甘えは良くないと欧米に視点を置く識者は考えたのではないか。これら時代の現象が日本の子育ての愛着を阻害したと私は考えている。こうして昔の子育ての考えが作り出した発達障害なるものを今の時代に生きる私たちが自分の問題として引き受けなければならなくなっているのである。前向きに目先のことばかり考える江戸っ子的日本人は過去のことはあまり振り返らない。親の問題を子どもが背負っていることは少なくない。親があることに浮かれているとその報いは子どもが背負わされる。私は昔ロジャーズやユングに浮かれていた。今の人は発達障害に浮かれていると思う。その浮かれた分現実が見えなくなっている。人の認知はいつも歪んでいることを社会心理学は社会的認知として私に教えてくれた。

 心理の見方も内向型から外向型に変わった。先に教室の床に寝そべったり、席にじっと座っていない子どもたちの心は乳児のように這い這いをしていて、養育者の膝の安心感を得ていないと私は説明したが、それは行動の背後にある心の人格を見ているので内向的な見方である。それに対して外向的な人は発達障害というレッテルを外から貼り付け、教室や教師を認知せず行動の仕方が間違っていると考えるだろう。

 仕事熱心な親にほとんどかまってもらえない小学5年生の相談室登校の女の子がコラージュで大きなお誕生ケーキと籠に入った赤ちゃん人形の絵を貼っていた。それを見て外向的な人はこの子にはお誕生ケーキのような明るさと温かい気持ちが出てきたと感じるだろう。内向的な私は、小学5年生は本当の心の目覚めの時だから、この子は自分の誕生を予感していて、誰かに自分の誕生を認めてほしいと願っているのだと考える。そして佐野洋子の『100万回生きたねこ』の中の「このねこは誰のねこでもありませんでした」という言葉が思い浮かぶ。保健室登校までして私は誰の子どもかわかりません、私の人格の誕生を認めてくださいと言っているように思えるのである。このような内向的な見方は説明されると外向的な人もわかるだろう。以前私はしばしばどうしてそんな考えが出てくるのですかと言われたが、それは外向的な人からは理解できない発想になっていたからだということが最近やっとわかった。そういう内向的な性格は全く流行らない時代になった。

 私は行動の裏に人格を見た。多動の背後に養育者の膝に安心して座ったことのない人格を見ている。その昔人格という言葉が流行った。しかし、3、40年前の心理学の教科書にもすでに人格とは行動パターンの束であると書いてあった。まとまりをもった一人の内的な人格は認められていなかったのだ。そのねこ(子) は誰のねこ(子ども)でもありませんでしたという言い方は人格を想定した言い方である。ある青年は施設で育ち高校を卒業するに当たって先生に「私はこの世に生まれて来て良かった」と言った。その「私」は人格である。

 今の認知行動療法の考えでは、人を認知という機能や能力、あるいは行動様式の束として見ているのではないだろうか。WAISで知能を測り、能力に凸凹があると、その下位検査で要する能力の差からどの「能力が障害されている」と見てしまう。さらにそれは脳の障害であると。私などは凸凹があると能力が十分に発揮されていないけれど少なくとも最も高い得点のところぐらいまで潜在的に能力 があるのだろうと見るのだけれど。外向的な見方では点数が低いところはただ低いとしか見ない。まるで機能や能力の集合であるロボットを見るような見方で子どもを見ている。ロボットを強くするように子どもに能力をつければよいと塾通いさせる考え方で認知行動療法を行っているのではないか。私はこのような見方 には到底ついて行けない。ロボットに心はない、遊びもない。今は心理療法の時代でありながら心を見ていないのではなかろうか。

 今私の家に7匹の猫がいる。そのうち5匹は野良猫である。野良猫は凶暴で下手に手を出すと爪で皮膚を切り裂かれる。猫の気持ちを尊重してやさしく接していると猫パンチをくらってもケガをしなくなる。そのうちに猫パンチも出さなくなり、人のそばで寝そべるようになる。この馴れる程度は猫によって相当に違う。それは生まれたときにどれくらい人にやさしくされたかが関係するだろう。もう一つの指標はネコジャラシによる遊びに乗ってくるかどうかである。ネコジャラシに飛びつく猫は人に馴れやすい。つまり遊びができるかどうかで人との交流の可能性が決まるようである。猫でも遊びでかかわりが改善するのではないか。

 教室で寝転んでいる子ども、ウロウロする子ども、手遊びしている子どもも遊んでいるのである。主体的に自発的に選んだ自由な行動をしている。これが遊びであるとホイジンガーは『ホモ・ルーデンス』で言っている。すべての文化は遊びから生まれたという考え方である。

 私は遊びから人格が生まれ、その相手をしてやることによってかかわりのできる社会的人格が育っていくと考えている。子どもたちの行動を発達障害の問題行動と見ず、自発的行動の遊びと見て相手をして人格を育ててほしいと思う。これ がプレイ・セラピーを勧めたい所以である。

 箱庭療法は箱庭遊びであり、箱庭の中で自己発見ができ、自分が育って行く。箱庭療法はこれまで心理療法の技法として用いられてきたが、私は心、人格を育てる方法として発展させていきたい。箱庭には自分の世界が展開される、人には作れない自分の世界ができる。コラージュやスクイグルよりも自分の気持ちに満足のいく世界ができる、この点が箱庭療法の良いところである。この自分の気持ちに満足のいくこと、それが内面の深いところに触れるということで、それが最も大切なことで、自分の内面に深く持続的に触れていくことによって、外面で人々との関係が広がり、絆が強くなって行くのである。

 小学校に配置されたスクールカウンセラーのみなさんにぜひともプレイ・セラピーをやってもらいたい。ところによって小学校に空き教室があってプレイルームとして使うことができれば子どもと一対一で遊ぶことができる。このプレイで発達障害やアスペルガーと言われている子どもたちが良くなる。良くなると先生たちがみなさんの存在を認めてくれる。それは親面接よりずっと効果が上がると 私は確信している。そうすればスクールカウンセリング・プレイセラピー学会ができる。私はそれを待ち望んでいる。

 

 

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