教育相談の諸問題

 「教育研修会資料」というタイトルで保存されていた文章です。どこで行われたどのような研修会かは不明です。最終更新日は2006年8月28日です。所属は2006年当時のものです。

 

 

 

最近の教育相談の諸問題

椙山女学園大学 西村洲衞男

 

1 

 学校教育の主たる目標は教科教育であった。児童生徒に学力をつけ、豊かな知識と考える力を養いうことであった。

 教科教育の目的は人の知的能力を最高に生かして、コンピューターのごとく記憶し、正確に答えを出すことが良しとされた。それは今やコンピューターや電子辞書が取って代わるようになった。私はいろいろな知識を検索する能力があるとパソコンの利用で何でも知ることができ、それによって先生が求めるものを作成することができる。今年テレビでは夏休みの自由研究をアシストするHPが流行っている。自分で考えるより検索すると出てくる。そのマニュアルにしたがってやれば宿題ができてしまう時代になった。自由研究という課題の目的が意味をなさなくなってきているのではないか。

 PCから検索もできない子どもたちは今でも困っている。つまりやる気のない子どもたちである。やる気のない子どもたちにどうしてやる気を起こさせるかそれが問題である。

 やる気のない子どもたちは教育相談の対象となるだろうか。意欲の低下した子どもたちは何が問題なのか。

 給食を食べるのが遅い、友達が少ない、何かとテンポがずれていてやることがのろい、忘れ物がおおい、無口である、はきはきものを言えない、と言った問題はこころの問題である。勉強、勉強と上から仕込み、考えなさいと引き回すほど子どもたちの意欲が低下してしまう。

 

2 

 教科教育による知識や考える力の育成は生徒の人格を育てているか。それはどのように人格教育に役に立っているのかを考える必要がある。

 教師の指導を受け入れ積極的に勉強できる子どもたちは教える以前から、受け入れ態勢ができているのではないか。教科教育はそれを豊かにしていくだけではないか。

意欲的に勉強できない子どもたちは初めから教科教育を受け入れる素地が乏しいのではないかと思われる。

 

 意欲のあるなしは家庭教育で決まっている可能性がある。親の子育てのレベルで問題があるのではないか。

 子育ての仕方によって子どもたちの人格が違ってくる。ある子どもたちは大変意欲的で、ある子どもたちは意欲的でない。

 意欲的な子どもたちは野生的で元気がいい、何事も積極的で頑張り屋である。わがままで一生懸命に頑張る。

 意欲がない子どもたちの多くは幼いときから意欲が乏しい傾向があり、野性味に乏しい。

 

4 

 意欲の無さは生まれつきか。回復不可能であるか。

 育て直しによって意欲を回復することができることを臨床心理学は明らかにしてきた。

 人は退行することによって元気が出る。前進のための退行という現象がある。

 子どもを退行させるために母子関係を豊かにする。

 これまで育ててきた親は大体精一杯努力しているので、それ以上に母性的な愛を注げと親に言うことは無理。そこでカウンセラーや教師が頑張る。その頑張りも一人では無理なので、スーパーバイザーが就いて援助する。つまり、生徒や母親を援助する教師やカウンセラーをスーパーバイザーが援助する。この援助的な関係(スーパービジョン・システム)が子育てを促進する。意欲のない子どもにも、そしてカウンセラーや教師にも暖かい配慮と無言の励ましが必要。共にやっていきましょう、決して見放しませんという態度をわれわれは持つ必要がある。

 このスーパービジョン・システムが教育相談やカウンセリングには絶対必要である。

 スクール・カウンセリングにもそれは言える。臨床心理士も一人では十分な仕事ができない。臨床心理士が先輩のスーパービジョン受け、教師が臨床心理士のスーパービジョンのバックアップを受けながら生徒を指導すると言う形が効果的である。

 

 ピグマリオン効果を考える必要がある。教師やカウンセラーが児童生徒に可能性を感じていると生徒の中にも良い傾向が育っていく。一方、教師が生徒の先行きに心配していると、親も生徒も教師やカウンセラーの暗い気持ちに反応してしまう。

 「お母さん、このままでは高校進学も、そしてその後の社会生活も心配ですよ」という言い方は、児童生徒の現実をしっかり見て、親や生徒を心配しているかに見えるが、先生の見方は基本的に悲観的である。この悲観的な見方が親や生徒を暗い気持ちにする。

 教師やカウンセラーのうつ状態が生徒やクライエントの気持ちを脅かし、うつ状態にしてしまう。先が見えないからあせり、怒りが出てくる。その怒りは、打開策がないためにより一層強い怒りを誘発するか、より強いうつ状態を作り出す。従って、教師やカウンセラーは常に心の安定と生きる意欲をしっかりと保っていく必要がある。今、心の問題に困っている人をそのまま受け入れながら、希望をもって、可能性に向かう姿勢が教師やカウンセラーに求められる。

 

 何事にも積極的な意欲的な子どもたちを育てるには、子どもを早くから教育したりしつけたりせず、大いに野生的に遊ばせる必要がある。遊ぶと子どもたちは元気になる。この段階を通らずに、勉強だけで野生的にさせることは不可能に近い。自由に遊ばせることが一番の近道である。

 遊びの中で子どもたちは自分が中心の世界をつくり、活き活きと遊ぶ。ゲームをするとずるいことをしても勝ちたがる。いつも自分が勝たないと気がすまない。遊びの中で自分が一番強いのだという感覚を持つことが心の安定と生きる力を育てる。

 

 最近の発達障害の子どもたちは学校に来て遊んでいる。席に落ち着かず、自分の好きなことしかしないのに何故遊ばせる必要があるのかといぶかる向きは多いと思う。

 最近、軽度発達障害と呼ばれる子どもの中にはアスペルガー障害(高機能自閉症)、や学習障害やADHD、つまり、落ち着きのない子どもが含まれている。

 これらの障害の基底には、余り充実していない親子関係が見出される。

 母親たちが知的で理性的に子育てをしていたり、愛着行動が十分に受け入れられていない。母親自身が余り抱っこされた経験がなく、子どもの愛着欲求に応えていない。

 この傾向は母親だけでなく、カウンセラーや教師にも見出される、一般的な問題である。現代の日本は愛着不足、一体感不足の時代である。

 ADHDを例に取ると、落ち着きない子どもは自分の椅子にじっと座っていることができない。ということは、自分の椅子が自分の安心の源となっていないことを示している。自分の椅子に座って安心すると言うことは社会生活の基本である。この感覚がない。子どもたちは親の膝にじっと抱かれて座ったことがないので、どこにも落ち着けないのである。社会生活に成功している教師にとって職員室や教室の自分の椅子に座ることは何でもないことだが、もし、自分の机や椅子が決まっていないとしたら、教師の基本的な安定感はどのようになるだろうか。自分の椅子にすわることは当たり前になっているので、それが当たり前でない子どもの心理が教師にわからない。ADHDの子どもたちは母親的なもの、寄りかかって安心できる親の膝を認知することができない。このような認知障害があるのでる。これを脳の機能の障害と言ってみても薬では治らないのだから何も益するところはない。遊戯療法の中で暖かく受け入れられることによって愛着対象が見えてくるのである。

 しかし、ある程度歳が行ってからもう一度親の膝の温かみを経験することは容易なことではない。安定した教師の暖かいまなざしや配慮によって、子どもたちはもう一度母なるものを経験することができる。けれども、そこでは長い辛抱がいる、仕事が待っている。その仕事は教える仕事ではなく、今までの学校教育の仕事以外の、家庭教育の領域の仕事である。

 愛着欲求を満足させる要素が欠けている教師やカウンセラーはどうなるのか。そのときはさっきのスーパービジョン・システムがもっと大事になるのだが、それを求めることが難しくなっている。

 親の乏しい配慮の元で頑張って自立してきた人は、ガンバリズムをモットーとしているので、基本的には退行して元気を回復することを良しとしない傾向がある。反対に子どもたちにも自分が経験したガンバリズムを期待する。しかし、意欲のない、元気のない子どもたちは頑張ることができない。ここに先生と子どもや親とこじれる要素がある。

 

 よくしつけられた子どもたちは遊びを知らない。

 不登校の生徒たちは自分の好きなことが言えない。

 閉じこもりの人たちは何がしたいのかわからない

 ニートの人たちも自分が求めているものがわからない。

 これらの人たちは言わば心のない人たちである、あるいは、心を持っていてもそれを表現できない人たちであるということができる。

 

 心を失った人たちは遊ぶことができない。

 遊びの中でこそ心が作られる。人は仕事に追われて忙しいとき、ボーとしていたい。そのボーっとしていることに徹することが遊びである。遊びとは仕事をしないこと、ぼーっとすること、自分の気の向くままにすることである。そのことを人に見守られた中ですることが大切である。一人遊びでは余り効果がない。遊びにも師匠の守りが必要である。それがカウンセラーであり、遊戯療法家である。

 

10

 遊びの中で人は自分が中心になっている。つまり一人前の人間は自己中心であるということが大切である。何事も自分が中心で、しかも、それで人とうまく行っていることが大切である。

 人は本当に自己中心的になったとき、相手の自己中心性も認めることができる。そこで初めて、私とあなたの対等な関係、社会的な関係が生まれる。それができるのは、早い子は小学校低学年、一般的には3,4年生である。ゲームのルールがわかり、対等な力関係で遊ぶことができるようになる時期である。

 

11

 配慮的な人間関係は最近と通用しなくなってきている。反対に、何でもすべて説明する自己主張型の関係になった。インターネットの社会では発言しないと自分の存在は消えてしまう。主張して初めて自分の存在が明らかになる。現代はそういう時代である。

 何でも発言する、わからなくても発言する、とにかく手を上げることが必要である。手お挙げない子は閉じこもる以外にない。だから何でもいい、間違いでも手を上げて主張するようにならなければならない。間違ってはいけないとか、でたらめではいけないと言っていると何もいえなくなるから、間違いでも言えということになる。間違ったらうまくごまかして切り抜けるすべを身につけなければならない。誰も自分を守ってくれないから自己弁護が大切になる。人に弁護してもらうことは期待できない。神は自ら助けるものを助ける。

 そのような社会の中で、配慮型の、誰かが気づいてくれることを待っている人は不登校や閉じこもる以外にない。言わば、社会的な関係の持ち方という文化の変化に乗り遅れた人たちが不登校や閉じこもりになっているといえる。

 それをなくしていくためには、間違ってもいい主張していくこと、ごめんなさいを言わない強気の態度が必要である。そういう強気の心を先生方も自分の中に養っていかねばならないのではないか。

 

12

 軽度発達障害の子どもたちの指導に実際に携わっている人びとは、子どもたちの親が何となく知的であることに気づいている。アスペルガー障害(高機能自閉症)の子どものお母さんは知的でさらっとしているし、父親も社交性に乏しく情緒的交流が乏しい傾向がある。あるアスペルガー障害のお母さんは、うちのお父さんは私よりももっと自閉っぽいと言われた。

 そこには性格の遺伝ともいうべきもの、宿命があるようである。

 両親共が大変知的で情緒的な交流が苦手である、そういう両親が出てくるようになった。類は類を持って集まるように、知的な人が互いに引き合って結婚する。これは学校教育150年の歴史の産物ではなかろうか。その子どもたちに知的にだけ優れ、情緒的な社会性の発達が未熟な子どもたちが出てくるようになった。学校教育は知的な人を育て、知的に優れた親が子育てをする結果、発達障害、つまり情緒的な側面が欠けた子どもたちが多くなったのではないかと思われる。

 これには昭和40年代に流行った『スポック博士の育児書』の子育ての仕方が影響していると思われる。このスポック博士は、甘えが良くないと指導した。実際『母子手帳』にも甘えすぎはよくないと書かれた。子どもは親とは別に寝かせるのがいいと考えられた時代がある。そのような愛着否定の育児観が愛着不足をもたらしたと思われる。

 多くの日本人は歴史を考えない。済んだことでしょう、今更考えてもしょうがないでしょうと日本人は考える。しかし、過去の経験は現代に生きている。愛着不足の先生やカウンセラーが現に多くいることは否定できない。もう済んでしまったことではなく、過去にアメリカから持ち込まれた育児観が日本では愛着不足という大きな問題を引き起こしてる現実に気づく必要があるのではないかと思う。

 

13

 学校教育は受験競争の影響を受け、また、近代の能力主義の、競争原理の社会意識の影響を受けてガンバリズムを是としてきた。これが一面ではしごきや厳しい指導をとなって現れた。東京オリンピックのときから、勝つためのしごきは肯定とされた。学校でも管理教育が行われ、厳しい指導に従うことが要求された。その厳しい指導の成果が、今家庭での厳しいしつけとなり、虐待を引き起こしていないかと考える必要を感じる。先輩教師がやってきたことの成果を今多くの教師が引き受けてその修正を迫られている。

 これからどのような教育が望ましいのか、一人ひとりの教師やカウンセラーが考えていく必要がある時代になったのではなかろうか。今までは言わば当局の、文化省の方針に従っておけばよかった、今、特別支援教育についてみると、具体的な方策は何もない。現場で考えなさいという感じである。

 一人ひとりの教師が自ら考えていく時代になって、先生方主体性が試されるときになったのではないだろうか。

 

 

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