長谷川泰子
先週末、自宅の大掃除を済ませました。年末ではなく、それより少し早めの時期、寒さが強まる前に済ませるのが恒例です。
知り合いのフランス人に、なぜ日本人はわざわざとても寒い時期に大掃除をするのかと聞かれたことがあります。彼によればフランスには「春の大掃除」という言葉があり、大掃除といえば春なのだそうです。フランスではセントラルヒーティングで家全体を暖めるのが一般的で、暖房の効率を考えると寒い時期はあまり窓や扉を開け放たない、春になって暖かくなってから窓を全開にして家全体に風を通し、大掃除をするようです。フランス人の彼にしてみると、暖かい時期の方が体も動きやすいし、外での作業も苦にならない、なのにどうしてこんな寒い時期にわざわざ大掃除をするのかと不思議なようです。
かつて「今年の汚れは今年のうちに」というCMがありましたが、日本の場合、新しい年を迎えるための準備のひとつとして大掃除があり、掃除は単なる清掃作業ではなく、こころと密接に結びついた行事・儀式という側面もあるように思います。「今年の汚れを今年のうちに」取り去るからこそ新しいものを迎え入れることができる、ついた汚れをなくしてできるだけ最初の状態に戻すことで再度始まりに戻ることができるという、古代的ともいえる発想(このあたりの話は宗教学者エリアーデの「永遠回帰の神話」などで詳しく語られているところですが)が今も生きているところだと思います。大掃除という年末恒例の儀式めいた行事によって、自然とこころも新たなはじまりを迎えるための準備が整うのではないでしょうか。
カウンセリングに来ている方からしばしば大掃除や部屋の模様替え、“断捨離”のエピソードが語られることがあります。こころの状態が変わる前後、節目の時にこういうエピソードが出やすいようにも思います。実際に掃除という作業をすること、何かを捨てること、片付ける・整理することを通じてこころの中の整理整頓をして、新たなスタートに向かおうとしているようにも感じられます。現実世界の行動とこころの中の世界がリンクしているのを実感します。
現在、コロナ禍で様々な行事や儀式が中止になっています。意味のない行事や儀式が中止されてほっとしている人も多いでしょうが、一方でこういったことがかなり私たちのこころのあり方を変えてしまうところがあるのではないかと思います。特にコロナ禍においてお葬式の形態は大きく変わってしまいました。お葬式は集団で行う儀式を通じて喪失感をともに抱えともに味わい、またともに昇華させる場でもありますが、そういった場を持てない今、喪失をより個人的な問題として抱えなければならなくなっているのではないでしょうか。
儀式は個人の意識で抱えきれない大きな問題を解決しようとするひとつの試みでもあり、古代からこころの変容を促すために人間が必要としていた仕掛けでもあったわけで、形式重視の堅苦しさ・面倒さはありますが、儀式の形式に乗ってしまえばこころが自動的に動き出すような確実さもあると言えます。儀式によって得られる変化を一人ひとりが自分だけで作り出していくことはかなり荷が重い作業です。今の状況を抜け出した先に、これまであった様々な儀式の形態はどうなるのか、これまでの形が復活するのか新たな形態へと変わるのか、こころのあり方と密接につながっている問題のように思います。