幼いときの思い出

 「幼いときの思い出」というタイトルで保存されていた文章です。最終更新日は2019年4月30日、西村先生ががんと診断される約5か月前です。旧ホームページにこの文章は掲載されておらず、内容を見ると書きかけのままで掲載に至らなかったのかもしれません。最後に歌の先生を誘って歌劇団の公演を聞きに行った、というエピソードがありますが、西村先生はかつて歌のレッスンに通っていたことがあり、還暦のお祝いのパーティーでは、皆さんに歌をご披露されたと聞いたことがあります。

 途中、変換ミスなどがありますが、訂正はせず、すべてそのまま掲載しました。

 

 

 

 

 

 今朝何か夢を見た。その夢は忘れてしまったが、夢の連想は鮮明でそれも夢かもしれない。私は独り言を言いながらヒコーキの絵を描いていた。そこにご近所の集まりでやってきた伯父さんが、うまいなと言った。

 私は絵よりも独り言を言いながら空中戦を空想していた。そこへ“絵がうまい”が入ってきて空想が中断した。それ以来私は絵を描かなくなってしまった。

 中学の時、絵の時間に、先生が私の絵を見て、みんなに絵はこんなに描くものだと言った。私の描写には陰影があり、先生のズボンの描写が陰影で立体的になっていたのだ。その時は褒められているとも感じなかった。自分は絵がうまいとは思っていない。今も絵が描けない。

 国語の時間、先生は私を指名して読ませた後、私の読み方が良いと褒めた。しかし、自分の読み方は平板で少しも良いと思わなかった。感情が籠っていないのを何故良いというのだろうと思った。

 中学三年で高校進学を考えたとき割り当てられて高校は元女子高でそこには絶対行きたくなかった。区域外高校では濟々黌という男子校に生きたかった。そこは2割だけ区域外からの進学を受け入れるのでそこを受験することにした。合格の可能性は全く考えなかったが、下校時理科の女の先生が追い越していく私に向かって同級生の前で、西村君は出来るもんね!、(大丈夫だよ)と声をかけた。私はそうかなあと思って通り過ぎた。自信がなかったから発表は見に行かなかったけれど、その学校にいた兄が帰ってきて合格していたと言ったので、ああ合格したのかと思った。私は元第五高等学校の隣にあるカラタチの生け垣に囲まれたその高校に通うのがうれしかった。

 中学の時、音楽と書道の先生が、私に音楽の道に進みなさいと言った。私へ中学2年生で声変りを経験ししばらく歌えなかったので、先生の言葉は別人への言葉のようであった。

 これまでにもある人は私の声がいいというけれど、人前に立って話をするとき声が小さいと今も家内に言われてしまう。私には声量がない。

 声が出る出ないは大事なことだ。世界的なオペラ歌手がの公演に高いチケットを買っていった。つまらなかったが、アンコールの2曲目で声が出た。その時の素晴らしさこれが世界一の声だと感じたから、それで元が取れたと思った。歌の先生を誘ってハンガリーの歌劇団の公演を聞きに行った。先生は舞台の一番遠いところでピアニシモで歌う女性歌手の声が遠い後ろの席まで聞こえてきたと感動していた。

 

 

 

次へ   前へ